身土対話

一般社団法人リビング・モンタージュのサイトにて、「シリーズ・地球のナラティブ」のエディターである寺田匡宏さんと、書籍「身土:人の世の底に触れる」について語り合う対談シリーズを始めました。
第1回は「村上春樹と河合隼雄から身土をみる」です。

山によばれる

秋の初め。なんの脈絡もなく、なにやら大きな、怒りのような悲しみのような強烈な情動に不意におそわれ、眠ることもじっとしていることもできない、そんな夜。

とりあえず体を動かせば落ち着くかと、ひとまず外に出てあてもなく歩く。
住宅街の狭い路地。歩きながら目にうつるブロック塀や電柱に次々と手を伸ばして触れてみるが、あまり感覚は入ってこない。身体の中を渦巻き、出口を求める形のない情動の波に注意力は奪われ、どうしてもまなざしは内向し、いま歩いているはずの夜の光景は半透明な膜の向こうを手掛かりもなく滑ってゆく。喉の奥が閉まり、呼吸が浅くなっているのを感じる。それでも体を動かしていれば多少は楽なようだ。現実感を喪失したまま、しばらく歩き続ける。

いつの間にか雑草の生い茂る川べりの道を歩いている。
足元から伸びる草を軽く掴み、引っ張ってみる。桜の老木の、苔に覆われてゴツゴツとした樹皮を撫でてみる。少し落ち着いたようで、先ほどよりも少し感覚が開いている。草叢に半ば埋まるように設置されているベンチに腰掛け、そのまま寝転がり夜空を見る。頭上を覆う木々の枝の隙間から月が見える。
どのように玄関を出て、どのようにここまで歩いてきたのだろう。思い出そうとしても、他人の記憶を探るような遠い感触で、うまく思い出すことができない。理性ではあまり良い状態ではないことはわかるが、その理性の世界は膜の向こうに見えるばかりで、引き寄せようと手を伸ばしても、ガラスに爪を立てるようになんの手掛かりも無い。
そのまま目を閉じる。一旦運動を止めたせいか、意識の外に追いやられていた周りの音が、堰を切ったように身体に流れ込んでくる。川の流れる音、風の音、遠くの町の喧騒が混ざりあった地鳴りのような音。

起き上がりふと目を上げると、向こうに黒々と鎮座する山並みが見える。
よく知っている山だが、月の光に色彩を奪われたその姿は、かえって尾根筋や樹木の立体感が際立ち、昼間よりもずっと大きく見え、巨大な質量を感じる。
その質量の重力に吸い込まれるようにして、山の姿をじっと見つめる。尾根の一つ一つを、樹木の種類ごとの質感とボリュームの違いを目で撫でるようにして追う。その表面に堆積した、暗く湿った土の層を想像する。その下の、質量の大半を占めるであろう岩塊の大きさを、重さを、手触りを想像する。自分の肉体の体積と質量を、その真っ黒な塊と比べる。

どうしても今すぐにあそこに行かなくてはいけない。

どういう訳か、それが唯一の答えだと確信する。
居ても立ってもいられなくなり、足早に家に帰ると、追われるように準備をして飛び出す。


登山口には未舗装の小さな駐車場があり、奥にはポツンと自動販売機が置かれている。
その灯りの中に自転車を止め、山の中へ向かう坂道を登る。

先ほど遠くから想像していたその黒い塊が、今は視界全てを覆う闇そのもののように目の前に聳え立っている。月は出ているが、森の底にその光は届かない。懐中電灯をつけて、道の先を照らしてみる。小さな光の輪の外は真っ暗だ。その闇は思いのほか不透明で、まるで墨汁の中を泳いでいるように感じる。何度も歩いたことのある道だが、当然ながら昼間とは全く別の世界に変貌している。

あちらこちらから秋の虫の鳴く声が聞こえてくる。
そのままゆっくりと登山道を歩く。家を出る際ついでに手に取ったビデオカメラを取り出し、懐中電灯が照らす先に向ける。
小さな光の輪が、下草の上を滑り、木の根に突き当たり、そのまま幹をなぞるように登っていき、枝の先の葉叢をぼんやり照らすと、中空へとかき消える。斜面を走り、藪を撫で、飛沫を上げる沢の水面に落下し、流れを逆さまに登って、岩の向こうの遠い暗闇に吸い込まれる。
懐中電灯を持つ手を動かして、その光で周囲を触るように確かめる。べっとりと身体に纏わりつく闇の圧力の中で、その小さな灯りが届く場所だけは透明になり、空間が現れる。
樹皮、枯葉、中空に伸びる枝と葉、こんもりとした低木の藪、名前も分からないキノコ、羊歯、柔らかそうな苔類。ダンゴムシ、コオロギ、蝉、ナメクジ、沢蟹。さまざまな形が光の中に現れては消える。漫然と広がっていただけの暗闇が、その具体的な細部の手触りに少しずつ満たされてゆく。背中では、リュックに下げた熊避けの鈴が鳴り続けている。


柳田国男の『山の人生』には、山に駆け入ってしまった者たちの話がいくつも載っている。
世の中への憤懣から遁世した者、産後に発狂した女性、不意にいなくなる娘や子供…。私などはカメラ片手に帰る気満々だが、もっとはっきりと、どうしようもなく、決定的に山に呼ばれ、後戻りのできない形で駆け入ってしまうことも、おそらくはあったのだろう。

濃密な共同体の中で、自身が受け続けている傷に気付くことなく日々を過ごす。傷を対象化する視点も、表現することばも、跳ね除ける力も持てず、ただその渦中で訳もわからずもがき続ける。出口も移動の自由もない世界の中で、その傷の痛みはある日突然、閾値を超える。その圧力は、その力の強さと大きさは、そのどうしようもなさは、いかばかりであっただろうか。
裏を返せばそれは、私たちを強く拘束し、同時に私たちを守ってもいる、群れを形成しようとし続ける運動の、私たちのありようを根底から基礎付け、形作り、それゆえに自明のものとして普段意識することの無い「普通」と呼ばれる信仰の、強さと大きさそのものなのだろう。

かれらは、しばしば人里を懐かしむ。炉の火を、酒を、米の味を恋しがる。しかし、一度出てしまった、追放された群れには、絶対に戻ることができないのだということを、かれらは良く知っている。里の者は、当然の反応として、かれらを尋常ならざるものとして怖れ、群れの外へ、闇の方へと一方的に追いやるだろう。


道から少し外れる。 

緩やかな斜面をしばらく登り、そのまま仰向けに寝そべる。腐敗へ向かう枯葉の柔らかな感触と土の匂い。ふくらはぎ、臀部、背中、後頭部の、地面に接触し自重がかかっている箇所から、じわりじわりと湿気が登ってくる。背中側の所々に石や枯れ枝の硬い感触があり居心地が悪いが、どうにも整える気にはなれない。
しばらくそうしていると、湿気と一緒に小さな虫が手足や頭、顔を登ってくる。虫が気持ち悪い、怖いという生理的感覚は、そのまま自身の輪郭の防衛ラインだ。いつもなら当然払い除けるだろうが、起き上がる気にも手足を動かす気にもなれず、少し捨て鉢な、どうにでもしやがれという気持ちでそのまま放置し、懐中電灯を消す。自分の手足も見えぬ闇の中で、体にたかる虫を放置する、という形で後退させた自身の輪郭は、たやすく闇に希釈され混ざり合う。

眼前には不透明な闇があり、まるで埋められているような、息苦しい圧迫感がある。自分は今地面の上にいるのか、土の中にいるのか。そのまま目をつむる。物理的に眼球からの視覚情報を遮断すると、音や気配に対する感度が上がり、周りの大きな広がりが感じられて圧迫感は消える。
頭の近くで小さな虫が歩く微かな音、さまざまな距離から聞こえてくる秋の虫の鳴き声、藪や樹上で何かが動く音。あちらこちらから感じる気配に、都度皮膚が反応してピクリと収縮する。それは自身の不安が投影されたものなのか、本当にそこにあるものなのか。呼吸、心音、汗がにじむ皮膚の感触、土からの湿気。虫の声、夜の鳥の声、遠くの沢の水の音、風が木々を揺らす音。それらの区別は徐々に溶けていき、唯のひろがりそのものになっていく。

知らぬ間に身じろぎでもしたのか、鈴が小さくコロンと鳴り、我に返る。
熊や獣の存在を改めて思い出す。


仏典の捨身飼虎の物語を思い出す。

釈迦の過去生の姿のひとつである、とある国の王子が飢えた虎に我が身を差し出して救う話だが、残念ながら凡夫である私には、虎に喰われるのはさぞ痛かろう、かわいそうで嫌だな、という貧しい感想しかない。
同時に、どこかで読んだ、ライオンに食べられかけ、生還した人のインタビューを思い出す。それは意外にも強烈な多幸感に包まれた体験だったそうだ。脳内麻薬のせいだといってしまえばそれまでだが、もし獣に喰われるという体験がそのようなものであるならば、王子の最後もそんなに悪いものではなかったのかもしれないと、少し気持ちが楽になる。それは生き物にとっては存外幸せな終わりの迎え方なのかもしれない。

とはいえ、当然私はまだ食べられたくは無い。
虫にたかられる程度の刺激からならば後退させることができる私の輪郭も、噛みつかれるような、痛みを伴うような侵襲的刺激にはきっと過敏に反応し、なりふり構わず逃げ出すだろう。
正常な恐怖感が湧き上がりはじめる。無様に抵抗し逃げる自分をありありと想像し、その情けない姿にホッとする。


カメラを起動する。小さな電子音と共に液晶の眩しい画面が点灯し、レンズが微かにジジジと音を立ててピントを探る。

その小さな光と音の向こうにつながる、雑多で断片的な手触りの記憶へのリンクが息を吹き返す。
カメラが売られていた家電量販店の明るい店内と能天気なテーマソング、新品の電化製品から漂う独特の匂い。立ち働く店員たちの顔と垣間見えるバックヤードの空気感。その店のある街角の雑踏の音と匂い。今までそのカメラ越しに見た沢山の光景とその瞬間の心の動き。編集ソフトを操作するカーソルを動かすバーチャルな感触とマウスパッドの上を滑るマウスの重さ、ハードディスクが立てるカリカリという音。
その無数の断片同士のゆるやかなつながりに血が通い始め、自身の生きていた生活空間としてゆっくりと再構成されていく。

はじめてビデオカメラというものを持った日のことを思い出す。
借り物のカメラを恐る恐る構える手のひらに伝わる、テープを回すモーターの感触を思い出す。
ただ映るということが面白かったことを思い出す。
とりあえず撮ってみた、当時住んでいた下宿の板張りの廊下を、急な階段を、共同の台所を、西日の差す明るい玄関を思い出す。
ファインダーの向こうで振り返り、照れくさそうに手を振る友人の、柔らかく油断した中途半端な笑顔を思い出す。

何気なく手に持ったと思い込んでいたカメラだが、そこには帰るつもりがあるということを忘れないための保険のような、命綱に縋るような、思いのほか切実な気持ちが混ざっていたことに気が付く。

立ち上がり、首にかけていたタオルで身体中を払う。


夜の帳は大劇場の緞帳のように重く濃密だ。私たちは透明な街の灯りの中で忘れているが、その帳は、山にも海にも街にも、等しく同じように、はるか昔からずっと変わることなく、繰り返し繰り返し降りてくる。

鈴を手に持ち替えて、コロン、コロンと鳴らしながら闇の中を歩く。

金物が触れ合う音色はこんなにも美しかったのかと、泣きそうな気持ちで聞き入りながら、一歩ずつ山を降りる。鈴がひとつ鳴るたびに、茫洋としていた皮膚感覚にピンと張ったテンションが戻り、それに伴って自身の輪郭が明瞭になってゆく。 いつの間にか、鈴の音に払われるようにしてあの情動の波は遠くに去り、その熱量のなごりだけが体の芯に残っている。

野画

夕方の町を歩いている。

都市の外れの山際に残されたその古い住宅地は、柿の木などの植えられた庭のある大きな古い家と、真新しい建売住宅が混在している。狭い路地に入ると、古びた漆喰の塀に残された、いかにも楽しげで伸び伸びとした落書きが目に飛び込んでくる。よく見ると小さく日付が添えられており、どうやら40年ほど前に描かれたもののようだ。
40年前のある日、この壁の前に確かにあった、誰かの楽しい数時間を想像する。彼は、あるいは彼女は、今どこで何をしているのだろう。


春の朝。河口沿いに並ぶ家々の間を縫うように歩いている。

早朝の青い影の中から向こうを見ると、狭い路地の先に明るい空がのぞいているのが見える。そのまま進んで影から出ると、一気に穏やかな河口の風景が広がる。
正面の堤防を見ると、漫画のキャラクターらしきものが描かれていて、それがどういう訳か、この海辺の朝の青い空気にとてもよく馴染んでいるように感じる。虚像である彼だが、ここではちゃんと肉体を持って、ここに居て、歳を重ねて、ちゃんと消えようとしている。


真夏の昼過ぎ。身体中から汗を吹き出しながら、草の生い茂る線路沿いの小道を藪漕ぎのようにして進む。

左手の草むらに立てられたフェンスの向こうには、廃校になった小学校の荒れた校庭が見え、その奥には鬱蒼とした山がのし掛かるように迫っている。そのまましばらく進むと、山側から流れ落ちてきた小川が線路の下に潜りこんでいる場所にぶつかる。そのトンネルは大人がギリギリ屈まずに通れる程度の高さで、一緒に設置された歩道とともに、海側のひらけた場所へ続いている。
かつては通学路だったのだろう。壁面には、この子供には薄暗くて恐ろしいトンネルを、少しでも明るいものにしようとしたような、楽しげな絵が描かれている。


蒸し暑い午後の水田地帯を歩いている。

青々と伸びた稲の根元のぬるい水からは、泥と有機物のむせかえるような匂いが立ち昇ってくる。 畦道を歩いていると、人の気配に驚いた蛙が慌てて飛び込む水音が、あちらこちらから聞こえてくる。舗装道路に出てあたりを見渡すと、向こうに見える用水路のガードレールに、まるでこちらを見る二つの目のような枠があることに気づく。
近づいてしばらく眺める。貼紙かなにかが接着されていたのであろうその糊の跡が、さざ波にゆらぐ水面のように見えてくる。


いまにも降り出しそうな曇天。駅から一直線に伸びる大通りを歩く。

しばらく歩いていると、案の定雨が降り始める。リュックに手を入れ、折り畳み傘を探しながらふと目を上げると、歩道脇の茶色い鉄の箱の表面に、雨粒が次々と鮮やかな線を引いていくのが目に入る。
それは刷毛跡の浮いた平面に、元からあった白い落書きのような線と響き合いながら、一瞬だけ目の覚めるような表情を作り出し、見ている間に塗りつぶされて消える。


あちらこちらを目的も無くうろうろと歩き回る、そんな外れた時間の中に現れる「絵」。それは、見に行こうとしても見られず、偶然出会うことしかできないが、見出そうとすれば無数に見出すこともできる。

誰からも、描き手自身にすら忘れ去られ、見向きもされない。
あるいは、描き手すら存在しない。

それでもそこに在り、その在るということの確かな証拠として、それぞれの肉体に相応しい速度で風化し、その肉体に時を刻みながら、風景の中に、野の中に、あたりまえに、何も言わず静かに去ってゆく。

誰にも見られなかった、選ばれなかった、美しいとされなかった、特別ではなかった、大切にされなかった、愛されなかった、膨大な数の「絵」。そんな無数の、無銘の「絵」が、波しぶきのように水面に現れては消える大海原を夢想する。 この吹き曝しの物理世界の、気が遠くなるほどの広さの中に現れる、肉体としての、あるいは夢としての「絵」。

その野の広大さに触れることで、ようやく息ができるように感じる。

残響

晩春、今にも降り出しそうな肌寒い曇天の午後遅く。

駅を出ると人影はまばらで、閑散とした駅前の土産物屋は早々と閉店の準備を始めている。谷あいの古い街道沿いに並ぶ家々の屋根瓦の向こうには、見上げるような山塊が幾重にも重なっている。
土産物屋の店先を覗きながら歩く。いつからあるのかわからない、曇った埃っぽいショーケースの、いつ書かれたのかわからない日焼けした値札の横に、名物らしき餅が裸で並べられているが、薄暗い店先には誰もおらず、奥に見える座敷にも人影はない。半分照明が消された茶店の奥に、学校帰りの子供たちがランドセルをあたりに放り出したまま寝転がって、携帯ゲーム機を覗き込みながら楽しげにふざけ合っているのが見える。数軒並んだ商店や宿屋はすぐに途絶え、そのまま静かな古い町並みが続く。

しばらく行くと、駅名にもなっている古い山寺へ続く参道が左手に現れる。その石畳の道に入り、長い階段を登って大きな山門をくぐる。本堂までは三十分ほどの道程のようだ。ひんやりと湿った針葉樹の巨木の間を縫うようにして、つづら折りの山道を登ってゆく。湿った土と落ち葉の匂い。道は綺麗に整備されていて歩くのに苦労は感じないが、登るにつれて深山の気配は濃厚になってゆく。
道の両脇には、ぽつりぽつりと小さな社やお堂、石塔が祀られている。そのひとつひとつの前に立って、まとっている空気に触れてみる。それらは創建後に少しずつ建てられていったもののようで、中世からごく最近までさまざまな時代のものがあり、それぞれが別の時間の質感と手触りをもっている。

道の終わりは傾斜が厳しくなり、長い石段が続く。目の前を壁のように塞ぐその石段を登り切ると突然視界がひらけ、巨大な本堂が目の前に現れる。中に入ることはできないようだが、白壁の向こうからは人々が立ち働いている微かな気配を感じる。それはこの寺院の日常という時間の手触りで、その感触が改めて現在という時間と、ここがいまも生きている祈りの場であるということを思い出させる。

そのままその伽藍の横を抜け、しばらく細い山道を歩くと、坂の上に灰色の建造物が見えてくる。いかにも古い公共施設といった燻んだ外観で、その巨木の影に隠れるように置かれた鉄筋コンクリートの箱は、山中の風景の中で異質な存在感を放っている。看板を見ると、それは私設の博物館のようだ。


入口でチケットを買い、展示室の中に入る。

一階はこの登ってきた山の自然や成り立ちを紹介する展示がまとめられている。底冷えする薄暗い空間に入るとホルマリンのむせかえるような匂いが充満していて、その匂いが、なぜか山中で感じた土と湿気の匂いを想起させる。室内を見渡すと、岩石、鳥獣や陸貝、昆虫といった生き物、植物などの標本が、スポットライトの丸い光の中に浮かんでいる。

山体を形成する凝灰岩や石灰岩、火成岩などの標本を見る。
その大部分は、赤道付近からプレートに乗って一億数千万年かけてここまで移動してきたものらしい。赤道直下の眩しく光る真っ青な海を想像し、いま立っているこの寒くて薄暗い場所との落差に、目を白黒させる。

壁に並べられた、野鳥や獣たちのパネルを見る。
写真はどれも古い銀塩写真を引き伸ばしたもののようで、ピントも甘く、ぼやけて色褪せている。写されている像の上に積もった、そのシャッターを切った瞬間から経過した時間の堆積が、そこに写る野鳥たちやムササビ、珍しい陸貝を、すべて過ぎ去った遠い昔の誰かの思い出のように見せている。

ひときわ目を引く、部屋の真ん中に積み上げるようにして展示されたきのこの標本を見る。
その保存液に浸され漂白されたきのこたちの、物質としての皮膚が生々しく晒されている姿を見ていると、辱めているような、後ろめたい気持ちになって、思わずそっと目を逸らす。

暗がりに浮かぶひとつひとつの展示物の手触りは硬質で、遠く冷たい。それは、人間にも寺院にも、その祈りにも関心を持たず、粛々と生き死にを繰り返し、物理法則に従ってさまざまな速度で流動する、圧倒的な外部の感触だ。

この部屋に充満する、どこか昏さを感じる匂いは、その流れから切断され、不当に固定された死そのものの匂いなのかもしれない。


二階に上がる。

展示室には、この寺院の寺宝や歴史的遺物がまとめられている。刀剣や書画、古い仏像がずらりと並べられている部屋からは、それらを大切に扱ってきたという手つきそのものの重みを感じる。

千年前の刀剣を見る。
錆に覆われ往時の輝きを失った刀身は、刃こぼれや曲がりなどの戦の記憶をその身に保存している。この刀の柄を握っていたのはどんな手だったのだろう。若侍のほっそりした手だろうか。歴戦の傷だらけの手だろうか。
その手が感じた人を斬る感触を、その手に伝わる、肉体を掻き分けていく背筋が凍るような抵抗を想像する。刀身を刺し込まれた肉体と、その持ち主の最後に見たものを、その場所に渦巻いていた情念の熱量を想像する。

古い祭りの道具や日用品、古釘や建材の一部などを見る。
祭りの準備をした誰かの手、その日用品を丁寧に扱っていた誰かの生活、鍛冶屋の誰かの、大工の誰かの長い修行の時間を想像し、その向こうに広がる世界を手探りする。その感触が、千年以上この山寺に出入りし支えてきた無数の人々がいて、その生活があったという当たり前のことに、少しずつ血肉を与えていく。

そのまま、今から数百年前の、本堂の喧騒を想像する。

蝋燭の光でぼんやりと照らされている、日の入らない建物の奥の暗い廊下。前に立つ男の、産毛の生え始めた月代。隣の若い女性の抱く、ほっぺたを真っ赤にした乳臭い赤子。そのふっくらした小さな手がつかんでいる綿入のほつれた端。その横の中年の男の、白目の濁った鈍い眼差しと、藍染の小袖の襟からのぞく日に焼けて垢じみた硬い肌。向こうに立っている、獣のような虚な目で中空を見つめる老人と、不機嫌そうに彼に話しかけながら手を引く中年の女性。窓の向こう、遠くの明るい参道には、腰に恐ろしい大小を差した侍が数人、神妙な面持ちで床几に腰掛け雑談をしているのが見える。

彼らが普段見ているもの、触れているものを想像する。

冬の朝、水路の冷たい水で大根や菜葉についた土を落とす手触りとその痛み。近所のおかみさんたちの、朝日を透かせた赤い耳と、重なる白い息。振り上げる鍬の、手の脂で黒ずみ、ツヤの出た柄のつるりとした硬さ。夜なべになう草鞋の、束ねた藁を挟み、捻る手のひらの感触。囲炉裏にかざした手の、産毛が焼かれる小さな音と、炭の匂い。目覚めた朝の、暗がりで寝息を立てる家族の体温と、体の下の筵の感触。鋤を引く牛の手綱から伝わる、上気した獣の肉体の呼吸。祭りの時にだけ見られる、並んだのぼりの華やかな色と、遠くから聞こえる笛や太鼓の音。

その彼らの目で、彼らのここでの経験を想像する。

郷の人々や家族に見送られて出立した早朝の冷たい空気。懐に感じる、講仲間から預かった餞別の持ち慣れない重さと、普段の生活から離れた高揚感。一瞬目に入る、飛ぶように追い越していく飛脚の、刺青がびっしりと入った勇壮な後ろ姿。遠くから見た、自分には縁のない大店の軒先に並んだ美しい反物と、そこに出入りする身なりの整った人々。心細さから、子供のように狼や狐狸におびえ歩く夕方の峠道と赤い空。木賃宿で寝入り端にぼんやりと見ていた向こうの戸板。山門前の祭りのような人混みと、物売りの声の賑やかさ。見知らぬ人々とともに登るひんやりと湿った山。唐突に現れ、その大きさに息を呑んだ本堂。畏れのような緊張を感じながら歩く板張りの廊下。暗がりから現れた厳かに歩く僧侶たちの、墨染めの衣と重そうな袈裟。低く唸るような読経の倍音と息遣い。むせかえるような線香の匂いと、目に染みる護摩の煙。蝋燭に照らされ、鈍い光沢を放つ荘厳な内陣の装飾と、その真ん中に立つ仏像。その像に向かって、熱心に手を合わせる周りの人々。

当然、彼らはみな、彼らの生活を各々全うし、遠い昔にこの世から去っている。
みんなどこへ行ってしまったのだろう。

彼らひとりひとりの名前は、親しんだものは、見たものは、感じたことは、望んだことは、愛着のある風景は、くらした世界は、全てきれいに消えてしまったのだろうか。
彼らひとりひとりがそれぞれ大切に抱きかかえていただろう、嬉しかったこと、悲しかったこと、愉快だったこと、辛かったことは、全てなかったことになってしまったのだろうか。

あの硬質な冷たい土と湿気の匂いの、その広い広い向こう側に混ざり、希釈されてしまったのだろうか。


三階に上がると、目の前に畳敷の広間への入口が現れる。

中は三十畳ほどの広さで、壁沿いに仏像が数体、ぐるりと安置されている。そのまま靴を脱ぎ、薄暗い部屋へ入る。くたびれた足には靴を脱いで座れることがありがたい。ここまで登ってくる者は珍しいようで、私以外には誰もいない。隅に積まれた座布団を一つ拝借し、その部屋の真ん中に座る。
少しずつ体の向きを変えながら、周りの仏像を一体ずつ見てゆく。伏目がちで柔らかく立つ姿、憤怒の形相で力強く立つ姿、優美に憂いを含んだ姿、印を結び真っ直ぐに立つ姿。彼らの前に立っただろう無数の人々の後ろ姿を想像する。

閉館の近い館内は、時折どこかの扉を開け閉めする音が遠くから聞こえるほかは、なんの物音もしない。その静けさに、自分が山の中にいるのだということを思い出す。そのままどこを見るともなしに、小一時間ほど、ただ座って過ごす。

この惑星最大の大陸の東端に浮かぶこの群島の上に、この古い都市があり、その北の果ての奥、山の中の、コンクリートの箱の中に、いま自分は座っている。
千年以上前からここには寺院があり、人々に大切にされ続け、その人々は次々と生まれては死に、たくさんの出来事が生起し、去り、その時間の先端にこの薄暗い部屋があって、どういう訳かいま、この地にずっと居た像と同じ場所に、同じ暗がりに一緒に居る。

この仏像を構成する木材には、仏像になる前の樹木として過ごした長い時間があり、壁のコンクリートには、壁になる前の地中で砂礫や鉱石として過ごした長い時間があり、畳のイグサには、畳になる前の露天でのびのびと葉を伸ばした夏の時間があり、そのようにいま目に映るものには、私自身も含めてこうなる前の時間があり、どういう訳かいまここに、それぞれ形をなし、意味と名をおびて一緒に居る。

いつの間にか、ただそのこと自体を噛み締めるような気持ちになる。


目の前に仏像がある。

それは、遥か遠い昔、遥か遠い土地にシッダールタという一人の男が居て、歩いて、話したということが、反響と共鳴を繰り返しながら、遠いこだまをいまのこの場所にまで響かせているという事だろう。 そう考えれば、消えてしまったように見えるあの無数の死者たちの見たもの、感じたもの、くらした世界たちも、巨大な通奏低音のように、いまこの場所で、そのこだまを響かせているのかもしれない。

もしそうだとすれば、きっと、私のいままで見たもの、感じたこと、その全ての瞬間もまた、その巨きな音の中で、そのちいさなちいさな一部として、繰り返しこだまを返しながら、いまここで響き続けているのだろう。

北限の鏡

踏み締められた歩道の雪は硬く凍っている。

おぼつかない足元に気を取られながら、食事のできる場所を探して歩きまわる。あたりを見渡すと、除雪された雪の大きな山が、青白い街灯に照らされてあちらこちらでぼんやりと光っている。まだ夜も早い時間だが、道沿いの商店はどこもシャッターが降りていて、人通りもない。道路の案内板に添えられた異国の文字に気づき、改めてここが北の果ての街であることを思い出す。時折、スタッドレスタイヤを履いた自動車が、凍った雪を自重で砕きながらゆっくりと通過していく。その大きな音が遠ざかると、自分の靴裏が硬い雪の表面を引っ掻く頼りない音だけが残される。静かな夜。

体が冷え切ったころ、ようやく灯りのついた定食屋を見つける。
雑然とした狭い店内は、夜は居酒屋になるような雰囲気。カウンターに置かれた四角い湯煎鍋にはおでんが煮えていて、その前でビジネススーツの上からコートを羽織った若い女性が食事をとっている。座敷の奥では、仕事終わりらしい男たちが四人、食事を終えて静かに飲みながら談笑している。

手前の座敷に座り、注文をする。奥の男たちは、どこかの現場の職人らしい佇まいだが、年齢も背格好もどことなく揃わない。その違和感になんとなく興味をひかれ、先に出てきたビールを飲みながら、男たちの会話を聞くともなしに聞く。どうやら彼らは、農閑期に出稼ぎにでて、たまたま同じ寮でひと冬を過ごすことになった仲間たちのようだ。お互いの身の上話、家族の話、稼ぎの良い仕事の情報交換。その独特の渇いた距離感に、どこか居心地の良さを感じる。

しばらくして、料理が運ばれてくる。
良く脂の乗った大きなホッケ、小鉢に入った根菜の煮物、溶き卵を落とした味噌汁、柴漬け。腹に温かいものを入れると、ようやく体の芯に残っていた緊張がほどけてくる。奥の男たちの話題は、いつしか同じ寮に、誰かはわからないが、トイレに入る度にトイレットペーパーをひと巻き使い切る奴がいるという話題に変わっている。どんな量の糞をするのだと、冗談を飛ばして笑い合う。思わずその、誰も知らない男の姿をありありと想像する。
黒いシャツを着た神経質そうな兄ちゃんの、どこか粗暴な立居振る舞いと、その癖のように頻繁に前髪に触れる手。廊下ですれ違い、目も合わさずに会釈して足早に立ち去る後ろ姿。
とても食事をしながら聞く話ではないが、その品の無さも含めて、雑にほぐれた空気感と愉快な気持ちが伝播する。味噌汁をかき回すと、出汁に使われた蟹のガラが腕の底をごろごろと転がり、その硬い感触が腕を持つ掌に伝わってくる。そのまま腕に口をつけ、残りの味噌汁を啜る。おいしい。ほんとうにおいしい。


早朝、宿を出て日の出前の街を歩く。

アスファルトの路面も、ブロック塀も、壁も、豪雪地帯特有の痛み方をしている。手をポケットから出して、その冷たくて硬い、街の裸の皮膚に触れてみる。凍結と融解を繰り返す雪に痛めつけられたその荒れた肌に触れていると、この地の長い冬の時間そのものに直接触れているような気持ちになる。

そのままあちらこちらに触れながら港まで歩く。海は穏やかだが、湾口を塞ぐように突き出た埠頭には海流の関係か強い波が打ち寄せており、コンクリートの巨大な防波ドームが頭上を高く覆っている。波の打ち付ける音を、繰り返し低く響かせ続けるドームをくぐり、その先端に出て白み始めた港内を眺める。強烈な寒風。瞬く間に冷えた全身は硬く強ばる。たまらず、来た道を凍えながら引き返す。

浜を歩く。
舟上げ場に置かれた小舟には水が溜まり、中に様々な漁具を浸したまま凍っている。そのつるつるとした氷の表面に触れてみる。そのまま目を上げてあたりを見渡すと、綺麗に形の残った雲丹の殻が、波打ち際に沿ってぽつりぽつりと佇んでいるのが見える。
しゃがみこんで、ひとつひとつ手にとっては眺める。青みがかったベージュ。彼らはそれぞれ、色も大きさも少しずつ異なっている。雲丹は、その無数のトゲの先端に光を感じる細胞があって、いわば全身が目玉であると、どこかで聞いたことを思い出す。
その殻に触れながら、彼らの「見る」を想像する。それはきっと、「触れる」と渾然一体となり、区別されない「見る」なのだろう。彼らがこの冷たい海の底を歩き回り、全身で触れ、全身で見てきたものを、その経験を想像する。見て、歩き、食べ、交配し、その結末として、この美しい殻がここに佇んでいる。そう思うと、上部が円形に開いたその形が、まるで石化した眼球のように、見たということそのものの結晶のように思える。

穴の中を覗き込む。
その何もないようにみえる虚な空間は、きっと彼の「見た」の全てで満たされているのだろう。ずるりと吸い込まれるような、覗き返されたような気持ちになり、思わず目を逸らす。 再びあたりを見渡す。そこには、そんな海の底からまけ出た眼球の化石たちが、波打ち際から冷たく仄暗い故郷を静かに見ている。


岬の北端に向かうバスはガラガラだ。

近くの席では、首から敬老パスを下げたおばあさんが二人、お互いの体にそっと触れながら、仲睦まじく何かを囁き合っている。少し離れた後ろの席では、ジャージ姿の高校生が、大きなスポーツバッグを膝の上で大事そうに抱きかかえて、眠い目をぼんやりと窓の外に向けている。バスは似たような寒々とした小さな漁港の前を、繰り返し何度も通り過ぎてゆく。
しばらくすると高校生はバスを降り、車内には私とおばあさんたちだけが残される。ふたりは変わらず会話に夢中になっているが、エンジンの音にかき消され、その内容は聞き取れない。ぼそぼそとした声の感触だけを耳に感じながら、このふたりはどんな関係なのだろうと想像する。

幼馴染だろうか。姉妹だろうか。同じ時期にこの土地に嫁いできて、同じ苦労を分かち合った友人同士だろうか。バス停で偶々出会っただけの、見ず知らずのふたりだろうか。
当然、ほんとうのことはわからない。しかし、たとえ直接関係を尋ねたとしても、「ほんとうのこと」は、本人たちにも、誰にもわからないのかもしれない。

漁港のひとつでバスは止まり、ふたりはお互いの足元を気遣いながら手を添えて支え合い、ゆっくりとした足取りで降りてゆく。バスが再び動き出すと、車窓からのぞいた寄り添う二つの頭が、漁港と一緒に後方へ流れていく。寂しく一人残された車内から、どこまでも続く灰色の浜を眺める。


岬の停留所でバスを降りる。

あたりを見渡すと、冬枯れの草地に覆われたなだらかな丘陵地帯が広がっている。曇天だが、幸い降り出す気配はない。手前の丘の上には、旧海軍の小さなコンクリート製の望楼が残されていて、遠くに通信用の鉄塔が数本、高く聳え立っているのが見える。そのまま丘を登り、望楼の横を超えて内陸へ向かって歩く。

ゆるやかにカーブを描きながら、登り降りを繰り返す坂道。ふと目をあげると、向こうの丘の稜線から、二羽の猛禽が身じろぎもせずにこちらをじっと見つめている。そのまま立ち止まって、こちらも視線を返す。
彼らの大きな目はきっと遠くまで良く見えることだろう。その目に映る場所のどこにでも、望めばすぐに飛んで行けるのだろう。そんな彼らの目に、この丘は、海は、そして私は、どう映っているのだろう。猛禽の肉体を持って、この風景を見て、その中にいる、というのはどんな感じなのだろう。
稜線の四つの眼球は、静かにこちらを見続けている。その目の奥の、私には知り得ない彼らの世界の中の、私には見ることができない光景の片隅に、いま確実に私の姿がある。その不思議さに、どこか知らない遥か遠くの風に、ふっと撫でられたような気持ちになる。

しばらく丘の上を歩いた後、望楼まで戻る。
その古いコンクリートの構造物は今は展望台になっていて、残念ながら中には入れないが、外側は登ることができるようになっている。壁に手を触れながらゆっくりと階段を登って、岬の風景を眺める。
封じられた建物の窓から中を覗き見ると、そこはがらんどうで何も残されていない。ガラスの向こうに閉じ込められた静止した空気は、ここで経過した長い長い時間を、そのまま保管しているように見える。

その旧い時間の遠い手触りを感じながら、百年前のこの窓の中から、海を監視していた兵士が過ごしただろう時間の断片を想像する。

夜半まで降っていた雪は止み、冷たいコンクリートの望楼の窓からは、静寂の底に沈む岬の風景が、薄明の中に少しずつ浮かび始めるのが見える。丘の向こうの漁村から一筋だけ、ゆっくりと炊事の煙が上がる。夜が明けるにしたがって緊張は少し緩み、そのふと我に帰ったような、しんとした空白に眠気が侵入してくる。軍から支給された外套はゴワゴワと分厚く硬く、湿気を吸って重いだろう。体中にカンテラの油が燃える匂いが染み付いているのを感じるだろう。向こうに見える一筋の煙に、故郷の朝の空気を思い出したかもしれない。

彼の郷里はどこだろうか。雪深い山村の猟師の息子だろうか。田んぼが広がる米どころの、農家の三男坊だろうか。雪など見たこともない南国の漁村の、網元の末っ子だろうか。ひょっとすると、知らぬ間に他国ということになった眼前の海の向こうの島で、獣を狩り野草を採ってくらしていた家族の子なのかもしれない。


岬の先端には、ここが北端の地であることを示す記念碑が、海に背を向けて立っている。

隣接する土産物屋の駐車場には、大きなトラックがぽつんと一台だけ、エンジンをかけたまま止まっている。
駐車場を横切り、記念碑の脇を越えてそのまま波打ち際まで降り、北の果てを望む。

向こうは晴れているのだろう。遠い水平線の上に浮かぶ、豆粒のような異国の山々の頂きは白く光っていて、おもわず手を伸ばして触れたくなる。あちらの海辺にも、南限の汀から同じように異国をまなざす誰かがいるのだろうか。冷たい海は驚くほど凪いでいて、わずかな波の音すら聞こえない。水面はどこまでも平らで、鏡のように鈍色の空を映している。

ふと、あらゆる境界はこのような鏡なのかもしれない、と思う。
まなざし、まなざされ、互いに投影された自身の鏡像に目を凝らす。
そこに映る自身の理解のかたちに、価値の姿に、願望に、憧れに、喜びに、恐れに、憎悪に、怒りに、悲しみに目を凝らす。その像に触れようと手を伸ばしても、指には冷たい水が触れるばかりで、乱れた水面の鏡像はかき消える。決して触れたかった鏡の中のものには触れられない。
なにかを見ようとするということ、見るものと見られるものに分け隔て、輪郭を引くということは、そういうことなのかもしれない。

こちらとあちら、うちとそと。
我が国と彼の国。
社会とわたし、家族とわたし、あなたとわたし。
風とわたし、海とわたし、雪とわたし。
わたしとわたしの肉体、わたしとわたしの心。
わたしとわたしの思い出、わたしとわたしの未来。
わたしを見ているわたしと、わたしに見られているわたし。
そのように、今ここを時間と空間の方向に無数に区切り、幾重にも重ねられた、複雑で精緻な合わせ鏡。

私のちっぽけなからだとその感覚器官で触れられるものは少なく、その小さな知性で知ることができるものは狭く、限られている。私たちは、その合わせ鏡の中に見える、万華鏡のようにどこまでも続く鏡像の広がりによって、世界の広がりを近似しているのかもしれない。

合わせ鏡に閉じ込められた孤独から、その像に触れることを、触れられることを望み、手を伸ばす。
そのように私たちは孤独であり続け、そのように私たちは、想像することしかできない他者に、外部に触れ、確かめ合おうとし続け、手を伸ばし続け、裏切られ続ける。

もし、あの出稼ぎの男たちと、トイレットペーパーを使い過ぎる誰かと、海底をゆっくりと歩く雲丹たちと、二人のおばあさんと、二羽の猛禽と、百年前の兵士と、異国からこちらをまなざす誰かと、話をすることができるのならば、きっと私の貧しい空想は全く裏切られ、未知の万華鏡から見た異質な風光に触れることになるだろう。


バスの時間には未だ数時間の余裕がある。

岬の突端から離れ、海沿いの道を歩く。ゆったりと海に迫り出した、丸みを帯びた丘が重なりあう風景がどこまでも続く。茶色の枯れ草に覆われたその柔らかな丘は、さながら寝そべった巨大な獣の背中のようにも見える。
自分のからだがこのように大きな獣だったとして、海からの風は、打ち寄せる冷たい波は、からだの上に降り積もる雪は、その背の毛並みを食む牛たちの体温は、干し草を運ぶトラックの轍は、リズミカルに歩くヒトの靴裏と体重は、どのように感じられるのだろう。

Animation (2015)

「頂の船」アニメーション(約3分のループ) 2015年

「野を往く児」アニメーション(約1分30秒のループ) 2015年

「呼ぶ人」アニメーション(約1分30秒のループ) 2015年