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あたりまえの速度

渡邊ひさの

 「ギャラリーRAKUにアトリエを作ります」と、大きな案内状を持って和出さんは現れた。一年程前にギャラリーRAKUで二〇〇〇枚の多彩なドローイングを展示した 『SIGNAL』 の記憶がよみがえった。案内状には以前のドローイングに出現した奇妙な形をしたもの達が三六体並んでおり、それぞれが黒く奇妙に見えた。次も何かが起こるのではと、少し緊張しつつ会場に足を運んだ。

 入り口の扉から中は見えない。会場に入ると暗く、中央には愛用らしき机と椅子が置かれており、机を囲むように手に取れるほどの大きさの紙が放射状に配置されている。何かここで生産されているような様子。机にあてられた照明や、空中に浮いている振り子時計の音が不気味さを増している。

 発色の良い絵の具で描かれた記号のようなおもちゃのような、かわいらしい和出さんの絵を見てきた私にとっては、とても居心地の悪さを感じた。

 「ここで描いているの?」と尋ねると、彼は答えながらサラサラと一枚絵を描いた。描き終わると円形の途切れている所へその絵を置いた。私は、設置された装置がどのようにはたらいているのかだいたい理解したので、用意されたLIFE/PAINTINGという舞台への介入を楽しむ事にした。

 机は彼の身体ではないかと思った。そして、周りの描かれたものたちは彼という人物像を作りだしている「もの達」である。自分を作り上げているものは経験と記憶だ。その記憶の引出しから 「実態のないもの達」を出し入れすることで自分という核を作っている。机から円形に配置された 「もの達」は、彼の意思によって引出しから取り出され、手を通過して来場者に向かって飛び出るので放射状になっているのだ。

 そして、振り子時計の音、手の動き、絵を配置して歩く歩幅、墨の乾く速さ。

 利便の為の速度ではなく、人が元来持っている時間の流れがそこに作りだされている。彼の言う「地に足のついた本当の生へと繋がる道」を歩く速さではないか。彼は、その道を自ら歩いてみなければ確かなものを感じ取ることができないのだと言っているだろう。

 緩やかな時間の中で、ひとつの景色を思い出した。

 車上からは、景色は見えるが部分は見えない。歩くことで自分を構成している世界の細部が見える。道端の雑草でさえ、私達の日常を構成しているものの一つなのだ。早い速度で時間を経過させてしまう日々では、誰もが自分を構成する多くのものとの関係を認識できないでいる。生きていくことも絵を措くことも、自分を取り巻くものにひとつひとつ丁寧に向き合うことが、自分を知る術ではないかと気がついた。

 向き合うことと言えば、『SIGNAL』 での二〇〇〇枚のドローイングにも共通していることがある。一見お絵描きに見える単純な動作でも、丁寧に向き合うことは、誰にでも出来て、そして誰にでも出来るものではないということ。食べることや眠ることのなど生理的に必要なもの以外は、生への欲求から遠ざかれば遠ざかるほど、あたりまえに続けるという事が難しくなる。それは人の欲望がそうさせないからだ。

 今展は単なるライヴペインティングではない。

 人の意識下へ追いやられている根源的なものとの関係を、描くという現れで彼は示してくれた。

 生という無限のように思われる道の途中に、経験しながらも未だ知らぬもの達への興味や謎解きが、彼に描くことを導いているのだろうか。それらに問いかける繰り返しが、何千枚という絵になって現れているのだと思った瞬間、会場の薄暗さも心地よさに変りその場を後にした。

 措くことを通して生という確かなものを感じる時間を出現させてくれた彼に、今度は営みという物語を期待したい。

(わたなべ・ひさの/立体ギャラリー射手座勤務)

芸術館季報RAKU vol.37 p.19(京都造形芸術大学発行)