絵をもう一度はじめる

前の仕事を辞めてこの三年間は体調を崩しがちで、とてもつらい時間だった。

辞める前は、これからは自分のことをしようと考え、準備もしていたのだが、そんな目論見はあっさりと崩れ、細々と最低限の仕事をしながら、ほぼ横になっているという状況が長く続いていた。

この春あたりから体調はだいぶ安定し、ようやく少しずつ前向きな気持ちも戻ってきた。

永らくサボっていたスケッチを再開する。


自分は相変わらず不器用で、何年やっても、何万枚描いても下手くそなままで、見ることと描くこと、目と手が上手くつながらず、四苦八苦している。

こうして改めて、描いている瞬間のうまくいかなさ、下手さと向き合っていると、そのうまくいかなさは、自分がずっと抱えていた「生きにくさ」と、そっくり同じ形をしていることに気がつく。

線を引く瞬間に立ち現れる抵抗感の塊を、仔細に腑分けしてみる。

そこにはまず、対象と向き合うことへの恐れとためらい、強い忌避感と、それと拮抗する、それでも触れたいという欲求と期待がある。

そして、手を動かすという運動にうまく接続できないぎこちなさと痛みがあり、そこに留まり続けられず、たえず逃れ、逸れようとする散漫な注意力があり、その空転への焦りと混乱、対象に触れられないことへの失意と悲しみがある。

これらの底には、描く主体、「私」が立ち現れることへの強烈な嫌悪と恐怖があり、その裏側に隠された同じ強さの渇望がある。これはまさしく、子供の頃からずっと抱えている自身の不全感そのもののかたちだ。

しかし、落ち着いてそのかたちに寄り添ってみれば、それは必ずしも解決されるべき問題というわけではないのかもしれない。
その瞬間に顕在化する、自分の人生をある意味で損ない続けてきた「生きにくさ」のかたちそれ自体には良いも悪いも無く、私というありようそのものの姿で、その軋みが自分に何かを作らせ続け、同時に作ることを阻害し続けてきた。

ただそういうものなのだろう。

べつに特別な話でもなんでもない。
描くことに限らず、それが仕事であれ何であれ、何かを大切にし、それと向き合おうとすれば、上辺のことでは済まされず、そのように深く自分のありようと向き合うことになる、という当たり前の話だ。


そう思えば、やはり自分にとって、描くということはとても大切なことらしい。

これまでのことを振り返ると、その上手くいかなさの中でわけもわからず振り回され、溺れていただけで、人並みのものは何ひとつ掴み取ることができなかったと、つい悲観的な思いの中に沈んでしまいそうになる。

しかし、ふとあたりを見渡せば、その空回りと思い込んでいた時間の結果として、細々ながらも食べていける仕事があり、自由にできる充分な時間があり、気にかけてくれる人々との繋がりがある。

もう一度はじめるには望外な状況だろう。

結局、この膨大なうまくいかない瞬間を、それでも落ち着いて、丁寧に重ねていくこと以外には、できることなど何ひとつない。その瞬間にしかほんとうのことはないのだから、焦らず安心して、何度でもはじめればいい。

そう思えてやっと、描くこと、つくることの豊かさ、見ること、感じることの深さと奥行きに触れる手がかりができたように感じている。

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