ひとは人懐っこさでできている

ここのところ体調が落ち着いているので、気候の良いうちに体力をつけようと思い、なるべく外に出てたくさん歩くようにしている。最初はただただ歩いていたが、少し気分も上向いてきたので、クロッキー帳を手にあちらこちらの風景をスケッチして回っている。


描くといってもさまざまな描き方があり、画材にもいろいろあって、それぞれにはそれぞれの面白さがあり、触ることのできる場所も違う。描き方によって、手に持っているものによって、見え方も、興味を惹かれる場所もまた変わる。

目についたものを次々と描いてゆく。あとにはたくさんのスケッチが、その見たこと、感じたことの痕跡として残される。

残されたスケッチの山を眺める。


もちろんそこには新しい発見があり、ある程度の満足感もあるが、どこか行き止まりにいるような閉塞感をどうしても感じてしまう。

紙とペンを手に持って何かに向かえば絵は描けるし、何をどう描いてもそれなりの楽しさはある。しかし、その都度のやりたいこと、見たいものに振り回されて、本当に触りたいはずの遠くに手が届かないという感覚、本当はこの先にあるものに、もっと開け放たれた何かに触れたいのだという欠乏感が、ずっと付き纏っている。

少しずつピントをあわせて的を絞る必要があるのだろうけれども、どうしてもうまくいかない。

手を動かしても、極端に言えば状況に振り回されているだけ、反応を返しているだけで、その瞬間に立ち現れる描いているわたし、見ているわたしはすぐにどこかに消え去ってしまい、受動的なわたしの断片だけが明滅するばかりだ。

ピントを合わせるという作業をしようとすると、どうも自分ではないような、人為的で硬く緊張したわたしが現れ、自然で柔らかい、生き生きとした能動的な主体を見つけられない。


二十代の終わりごろ、それまで自分が描いていたものが、全て借り物の、偽物のように感じて、どうしても絵が描けなくなった。
もう一度、らくがきからやり直してみよう、線を引く感触の中の、確からしい微かな手応えだけを頼りに、とにかくたくさん描いてみようと思った。

手探りの感触、その描く瞬間の感触だけを無数に積み重ねていけば、いずれどこかに、知らない場所に辿り着くのではと考え、実際にその通りのことをしてみたけれど、それだけをいくら重ねても、ついにどこにも辿り着くことはなかった。神経質な揮発性の主体が、瞬間ごとに立ち現れては消えるばかりである。

それはそれでひとつの本質なのかもしれない。
しかし、そこに満足感がなかったのは確かだ。

それでは、自分はいったい何に触れたいと願っていたのだろう。ずっと何が欲しかったのだろう。

色々と思い悩み、あれやこれや見てまわり、さまざまなジャンルを試み、たくさんのものを作ってきたけれど、その感触の底に、どこか萎縮した、閉じ込められた悲しみのようなものが流れているのを常に感じていた。

改めてその底に流れているものに触れてみると、ただ誰かに、今見ているものを一緒に見て欲しい、一緒に感じて欲しいという、ごくあたりまえな気持に蓋をしていたことに、それを恐れ、避け続けていたことに気付く。

これは淋しいという感情だ。自分は、ただずっと寂しかっただけなのだろう。

結局のところ自分は、ほら見て、たのしいね、おもしろいね、きれいだねと、誰かに語りかけたい、ほんとだね、たのしいねと誰かと一緒に喜びたいという、馬鹿みたいに単純なものしか欲していない。

それ以上は何もいらない。


若い頃の自分は、他者を意識するということを不純物であるように感じたのだろう。しかしそれが、見るということ、感じるということ、ここに在るということが、生き生きと立ち現れる前提そのものだったのかもしれない。

在るということは、他者を必要とする。

それは誰でも、なんでもいいのだろう。
たったひとりだけでもいい。
すでにこの世を去った人でも、まだこの世に存在しない人でも、実在しない人でもいい。
自分ではないものに向かって、大切な誰か、大切な何かに向かって、ほら見て、楽しいね、きれいだねと語りかけるそのかたちの中に、はじめて柔らかく能動的な主体は現れる。


その語りかけの姿勢を思い出しながら描いてみると、遠い昔、絵を描くのがただただ楽しかったころの感触が蘇ってくるのを感じる。ピントを合わせる、的を絞るために足りなかったものは、そんな単純なことだったのかもしれない。

こんなに遠回りしなくても、きっとみんなそんなことは最初から感覚的にわかっているのだろう。そんな当たり前のことを知るのに、随分と時間をかけてしまったなと思う。

絵をもう一度はじめる

前の仕事を辞めてこの三年間は体調を崩しがちで、とてもつらい時間だった。

辞める前は、これからは自分のことをしようと考え、準備もしていたのだが、そんな目論見はあっさりと崩れ、細々と最低限の仕事をしながら、ほぼ横になっているという状況が長く続いていた。

この春あたりから体調はだいぶ安定し、ようやく少しずつ前向きな気持ちも戻ってきた。

永らくサボっていたスケッチを再開する。


自分は相変わらず不器用で、何年やっても、何万枚描いても下手くそなままで、見ることと描くこと、目と手が上手くつながらず、四苦八苦している。

こうして改めて、描いている瞬間のうまくいかなさ、下手さと向き合っていると、そのうまくいかなさは、自分がずっと抱えていた「生きにくさ」と、そっくり同じ形をしていることに気がつく。

線を引く瞬間に立ち現れる抵抗感の塊を、仔細に腑分けしてみる。

そこにはまず、対象と向き合うことへの恐れとためらい、強い忌避感と、それと拮抗する、それでも触れたいという欲求と期待がある。

そして、手を動かすという運動にうまく接続できないぎこちなさと痛みがあり、そこに留まり続けられず、たえず逃れ、逸れようとする散漫な注意力があり、その空転への焦りと混乱、対象に触れられないことへの失意と悲しみがある。

これらの底には、描く主体、「私」が立ち現れることへの強烈な嫌悪と恐怖があり、その裏側に隠された同じ強さの渇望がある。これはまさしく、子供の頃からずっと抱えている自身の不全感そのもののかたちだ。

しかし、落ち着いてそのかたちに寄り添ってみれば、それは必ずしも解決されるべき問題というわけではないのかもしれない。
その瞬間に顕在化する、自分の人生をある意味で損ない続けてきた「生きにくさ」のかたちそれ自体には良いも悪いも無く、私というありようそのものの姿で、その軋みが自分に何かを作らせ続け、同時に作ることを阻害し続けてきた。

ただそういうものなのだろう。

べつに特別な話でもなんでもない。
描くことに限らず、それが仕事であれ何であれ、何かを大切にし、それと向き合おうとすれば、上辺のことでは済まされず、そのように深く自分のありようと向き合うことになる、という当たり前の話だ。


そう思えば、やはり自分にとって、描くということはとても大切なことらしい。

これまでのことを振り返ると、その上手くいかなさの中でわけもわからず振り回され、溺れていただけで、人並みのものは何ひとつ得ることができなかったと、つい悲観的な思いの中に沈んでしまいそうになる。

しかし、ふとあたりを見渡せば、その空回りと思い込んでいた時間の結果として、細々ながらも食べていける仕事があり、自由にできる充分な時間があり、気にかけてくれる人々との繋がりがある。

もう一度はじめるには望外な状況だろう。

結局、この膨大なうまくいかない瞬間を、それでも落ち着いて、丁寧に重ねていくこと以外には、できることなど何ひとつない。その瞬間にしかほんとうのことはないのだから、焦らず安心して、何度でもはじめればいい。

そう思えてやっと、描くこと、つくることの豊かさ、見ること、感じることの深さと奥行きに触れる手がかりができたように感じている。