「身土」補遺2. 断章/空を飛ぶ夢

空港のロビーで飛行機を待っている。

オフシーズンの平日とあって人はあまり居ないが、それでも窓に沿って並んだソファーには、ぽつりぽつりと人が座っているのが見える。いかにも観光といった浮ついた雰囲気の人はおらず、スーツや地味な服装の人が大半で、みな静かに搭乗の時間を待っている。大きな窓の外には、日常ではあまり見ない広さの平面である滑走路が広がり、時折発着する旅客機が目の前をゆっくりと横切ってゆく。ロビーの大きな空間を満たす、快晴の午後の明るすぎる光のせいだろうか。どこか夢のような、現実から遊離した時間の手触りを感じる。

空港に限らず、待合室というのは独特な質感をもった空間だ。そこでは時間は流れず、しかしそれは澱んだ停滞とは異なり、期待や不安、予感と徴候の微細な振動で満たされている。それらがこの空間で形を成すことは決してなく、我々の身体は、呼ばれるのを待つという、半端に開かれた受動的な姿勢のまま留め置かれる。どこか別の時間と空間へつながる幕間であり、いわばどこでもない場。途上で立ち止まり、宙吊りにされたまま次の物語をただ待つ場。三途の河原も、このようなぽっかりと明るく乾いた空気の場所なのかもしれない。


搭乗時間が近づくとゲート付近は俄かに慌ただしくなり、スタッフたちが慣れた様子で手続きの準備を始める。保留された時間と空間の一隅が、彼らの身振りによって少しずつほぐされ、出口として開かれてゆく。待合の客たちの身体は、その動勢が伝播したように、徐々に宙吊りの状態から動きの予感を湛えた佇まいに変質する。

搭乗開始のアナウンスが流れると、ロビーを満たしていた微細な振動は泡を形成し、ゆるやかに流動を始める。私の身体がその流れに同調しようとしているのを感じて、その微細な疼きに促されるままソファーから立ち上がり人々の列に加わる。きちんと制服に身を包み、落ち着いた態度で乗客を案内しているスタッフたちの立ち居振る舞いが、この先の空間がどのような質のもので、どんな文脈の、どんな物語の中にあるものなのかということを告げている。彼らと軽いやりとりをし、搭乗手続きを済ませる。客として眼差されるという、他者とのほんのささやかな接触が、一瞬で自身の身体の輪郭を明瞭にするのを感じる。
そのまま薄暗い搭乗橋の中を進み、終点の小さなドアから機内に入る。トンネル状のものをくぐるという体感もまた独特だ。違う空間同士を繋ぐ場所という意味では待合室と似ているが、そこは静止する場ではなく、逆に決して留まることのない場である。そういえば、飛行機も、列車も、長細いトンネルのような形をしている。人間の肉体もいわば一本の管であり、トンネルの一種と言えるのかもしれない。

それにしても、飛行機というものは何度乗っても慣れない。これから空を飛ぶということへの若干の不安と期待、興奮と緊張が入り混じった、そわそわとした気持ちのまま自分の席を探す。手荷物をまとめて座席に座り、辺りを見回すと、他の乗客たちはごく当たり前のように落ち着き払って、荷物棚にスーツケースをあげたり、つまらなさそうにスマートフォンを弄ったりしている。見たところ、いつも通りの慣れた動作といった様子だが、内心はどうなのだろう。私と同じように落ち着きなく浮つく心を、子どもじみているという自嘲とかすかな恥の感覚とともに押し殺しているのだろうか。それとも、本当に唯の日常の動作の中にいて、特に何も感じてはいないのだろうか。


時々、空を飛ぶ夢を見る。
しかし、残念ながらすんなりと自在に飛べた試しはなく、いつも大変な苦労を伴う。

その夢はまず、人間は普通に空が飛べるのだ、ということを思い出すことから始まる。平泳ぎの要領で懸命に手足を動かし、空気を掻くと、思いの外軽い力で空中を泳ぐことができて、ほら、やっぱり飛べる、と思う。そのまま、腰のあたりから、高くても電柱の高さくらいの空中をじたばたと泳ぐ。気を抜いて疑いが生じ、飛べるという「普通」を手放してしまうと、手足に感じていた大気の手応えは消え失せ、ずるずると落下することになる。自由に大空を飛ぶ爽快な夢を見ることができればさぞ気も晴れるだろうが、ついぞそのような夢を見た記憶はない。


ドアが閉まり、シートベルト着用サインがつくと、機体は誘導路をゆっくりと動き始める。緊張のせいか、それは随分と長い時間のように感じる。やがて機体は滑走路に進入し、離陸位置でぴたりと静止する。しばらくの間の後、突然エンジンの出力が一気に上がる。その音の力強さが頂点に達した瞬間、引き絞った弓から矢を放つように、一気に加速が始まる。轟音と加速度に揺さぶられながら窓の外を見ると、地面が少しずつ離れていくのが見える。やはり、空を飛ぶということは普通ではなく、大変な異常事態である。

とはいえ、普通を異常に切り分けていっても際限がないだろう。自動車という1トンほどもある金属の箱が猛スピードで好き勝手に街を走り回わっているのは恐ろしすぎるし、蛇口を捻るだけで遥か遠くの水源の水が手元に流れ出すのも実に奇怪だ。心臓が、長ければ百年近くも勝手に休みなく動き続けているのも不気味だし、時が過去から未来に向かって一方向にだけ流れ、戻らないことも、どういうわけか今ここにこうして在ることも、それがいつか終わることも、理不尽極まりない。そのように切り分け続けていくと、最後には宇宙と同じ大きさの、茫漠と広がる不可解で異常な世界に、不可解で異常なわたしがひとりでぽつんと立ち尽くすことになる。

だから我々は普段、どこか適切な場所に「普通」としてピントを合わせて、その解像度を生きている。「普通」という感覚の基底を生成し、それを信用し、その上に意味や価値や物語といった構造を築き上げ、その中を生きている。

飛行機は旋回しながら一気に高度を上げる。窓の向こうの離れていく地上が、壁のように斜めに傾いでいる。何度も体験し、知っている状況のはずだが、実際に轟音と共に揺れる部屋に身体が置かれると、やはり毎回初めてのように驚いてしまう。
揺さぶられ怯える身体を、様々な知識や理屈を思い浮かべてどうにか説得しようと試みる。飛行機というものが当たり前にあるということを、私は知っている。これまでに無数の飛行機が空を飛び、無数の人々がそれを経験していることを私は知っている。飛行機で死亡するリスクは、自動車による死亡リスクの2000分の1であることを私は知っている。いま窓の外で反り上がっている主翼と揚力の物理的関係を私は知っている。
ふと周りの人々を見ると、みな揺さぶられながらも落ち着いて座っていて、取り乱している者は誰もいない。

多くの人は、普通にしている乗務員や、周りの乗客の様子に安心するのであって、空を飛ぶ理屈を知ることで安心しているわけではないだろう。当然ながら、物理的に計測できる磁場や電場のように「普通場」があるわけでも、「安全素」で満たされた空間もあるわけではない。ただその普通を普通として生き、維持し続ける誰かが居るばかりである。わたしたちは、普通を纏い、普通の一片として、普通と普通を繋ぎながら移動する。

さて、この普通とはなんなのだろう。それは夢とどう違うのだろう。


夢という言葉は、睡眠中に見る夢という意味のほかに、「将来の夢」や、「夢を語る」などのように、未来に対する何らかの願望やビジョンを指す言葉としても使われる。その場合の夢とは、どのようなものだろうか。

それは「欲望」に近しいが、そこまで即物的な肉感と熱量はなく、「望み」や「願い」ほど漠然として受動的なニュアンスでもない。そこには意思と、そこに至るプロセスが含まれているように感じられる。それは未来への眼差しそのものであり、変化と時間を、すなわち物語を内包している。それは動態であり、未完のもの、途上のもの、未だ来らざるものである。それは指向性があり、実現を、完結を求め、到達することに乾いている。

そして、それは叶ったり、破れたり、奪われたり、忘れられたり、醒めたりする。終わりと限界が前提として組み込まれている。つまり境界があり、領域があり、中と外があり、したがって輪郭と皮膚を持っている。それは、外部との、他者との接触以前のものであり、その力強い明るさの中には、接触に対するナイーヴな怯えと排他性、閉じられた空間の湿った質感、閉塞感もかすかに漂っている。

こうして思いつくままに列挙してみると、それは人間のありようそのもののようにも思えてくる。


巡航高度に達した飛行機が水平飛行に移る。ポーン、という小さなチャイムが、シートベルトを外すことを許されたことを控えめに告げる。客室乗務員が、前から順番にドリンクのサービスを始めるのが見える。国内線の普通席であり、機内サービスとは名ばかりの簡素なものだが、それでも少し特別な感覚があり、嬉しい気持ちになる。それは、かれらが供しようとしている空の旅という物語の式次第の中にあって、その形式に則ったものだ。恭しくちいさな紙コップに注がれたお茶を受け取り、前席の背もたれに置かれた機内誌をめくってみる。そこには、紀行文やご当地グルメ、様々な土地の美しい写真などが掲載されていて、そのトーンは、いままで触れてきたスタッフたちの制服や立ち居振る舞いと同じ世界観に揃えられている。

隣に座っている背広を着た中年男性が、ノートパソコンを取り出して何やら書類を作成し始める。難しい顔で液晶を見つめる彼は、機上にありながら、本社や支社や会議室や、上司や部下や取引先などで構成されたビジネスの物語の中に居るのだろう。前方には、家族連れが並んで座っているのが見える。退屈そうに足をバタバタとさせる子供に語りかける両親の、言葉のトーン、所作、身につけているものの向こうに、かれらの家の親密さの感触、生活空間の質感が広がっている。周りを見渡せば、同様に出張中のサラリーマン、学生、旅行者など、多種多様な手触りの物語をまとった姿があり、かれらの居住まいの先には、それぞれ固有の世界が広がっているのが見て取れる。この空間を包もうとしている空の旅という物語は、注意深くかれらの物語の側に座り、その部分として受け入れられることを慎ましく望んでいる。

0.2気圧、-40℃の大気の中を、時速900㎞で移動する飛行機の、密封され、加圧されたキャビンは、その中に流れる様々な物語を壊すことなく、日常の延長として、普通を普通のままにそっと運ぶ。


窓から地表を眺める。微細なチリメンの皺のように見える海の波の小ささが、海面からここまでの距離を際立たせる。豆粒のような船が、小さな航跡を引きながら港に向かっていく。海岸に沿って、風力発電の風車が幽霊のように並んでいる。山々がひだを作り、そのひときわ高い頂きには、ちらほらと白い雪が見える。山間のわずかな平地は、もれなく整えられた田畑で埋められている。平野部を流れる曲がりくねった川。キラキラと白く光る小さなビルたち。網のように張り巡らされた道路。次々と後方に流れていく地表の様子を、まるで飢えを満たすように眺め続ける。

子供の頃、社会科の副読本として配られた地図帳がとても好きだったことを思い出す。ページをめくる度に現れる見たこともない世界の国々の風景や特徴、風物や暮らしに想像を膨らませて楽しんではいたが、それよりもまず、地形をなぞるように眺めること、その肌触りそのものに夢中になっていたような気がする。
その感触は、なぜか顕微鏡で見るミクロの光景ともよく似ている。買ってもらった顕微鏡で、田んぼや池の水の中に住む藻類や微生物を眺めたことを思い出す。私はそれも風景として眺めていたのかもしれない。

私は何を見てうっとりとし、何に触れることを欲していたのだろう。

今、私が風景を眺めることに夢中になっているここは、地表から約一万メートルの遠さにあり、山も木々も街も、海も川も野も、風も雲も雨も、わたしたちが日常的に世界と呼んでいるもののほぼ全てが、眼下に広がる極薄の対流圏の中にある。
私が今まで触れたものの全てが、過ごした場所の全てが、見たこと、聞いたこと、出来事と経験の全てが、この青白く光る薄い皮膜の底にある。そう思うと、それらがどこかまるっきり嘘のように、夢や幻のように思えてくる。

この光景は、誰によって見られている夢なのだろう。
その夢が見られている場所は、その肉体はどこにあるのだろう。


あたりまえのことだが、いま座っているこの空間は誰かが支え、維持している空間である。乗務員たちの安心感のある立ち居振る舞いも、決して一朝一夕に身につくものではないだろう。この機体の前部の小部屋に座っているであろうパイロットにも、その席に座るまでの長い訓練の時間があり、その訓練内容は、飛行機というものが世界で初めて空を飛んだ瞬間から、誰かの犠牲を伴いながら、誰かが一つずつ積み上げた知見の集積だろう。整備士の手元には長大なマニュアルがあり、それは、無数の人々が創意と妥協、実験と失敗を積み重ねた痕跡の集合である、この飛行する機械の見取り図となっているだろう。


いま背中に感じている背もたれの感触の先に、手に持った紙コップとお茶の重さの先に、客室乗務員の制服の繊維の先に、そんな無数の誰かの時間が連綿と続いていて、その絡まり合った巨大で複雑な物語の束の先端に、この揺れる部屋がある。
夢のようだと感じることを可能にしているこの部屋は、その無数の、しかし原理的には数えることが可能な有限の誰かに、一人ずつ名前を挙げていくことができる誰かの過ごした時間に支えられている。きっと、我々は一人残らず、その物語と時間の束の先端に立たされ続けているのだろう。

わたしたちは、お互いにまなざし、まなざされ、夢を投影しあい、誰かの夢の一部として、その夢を与えあい、あるいは奪い合いながら生きている。その夢は、誰かがそれを生きた、という事実そのものを分け合うことによって、現実として支えられている。

夢が現実を生み、現実が夢を支える。夢が現実を招来し、その現実が再び夢を駆動する。
普通という夢、日常という夢、家族という夢、社会という夢、国家という夢、世界という夢、わたしという夢。
夢と現実のあわいに、ヒトという在り様が、人の世という巨大な物語が現れる。


雲上の馬鹿みたいに明るい光が差し込む密室から、分厚いガラス越しに見る地上は、幻燈のような、夢のような質感で、だから、それに手を伸ばして触れることはできない。実際に触ろうと欲するならば、地表をのそのそと二本の足で歩き、小さな身体の小さな手のひらに触れる、極々僅かな部分の感触で満足する他はないが、残念ながら、あの触れたかった夢の手触りは、そこにはない。

「身土」補遺1. 裸形の縁(へり)

春の初め、午前6時。

夜がいつ明けたかもわからないような、曇天の暗い早朝。
海辺の無人駅で列車を降りると、風の中に粉雪が舞っている。

駅舎を出て歩く。海岸線の際にまで迫った山々を仰ぎ見ると、中腹より上は雲の中に隠れている。海側には高架道路が絡み合うようにして続き、その並んだ巨大な柱の間から、灰色の水平線が見える。


堤防と消波ブロックのあいだに残された、僅かな浜に降りる。

目の前には、分厚い雲にのし掛かられた水塊が黒々と広がっている。冷たい風の中に、わずかな潮の匂いを感じる。夏の海辺で感じるその匂いは、いきもののはらわたのような生々しい感触だが、いま冷たい大気とともに鼻腔から侵入してくるそれは、こごえる骨の結晶のような切実さで、そのまま鼻の奥から上顎骨にじわりと染み込み、頚椎を通過し、背骨から手足の末端へ向かって減衰しながらゆっくりと伝っていく。

あたりを見渡すと、護岸された猫の額のような浜には無遠慮に立てられたコンクリートの円柱がどこまでも続き、その間に申し訳程度に大小の石が転がっている。これを浜と呼んでも良いのだろうか?

その高架道路の単なる土台にされてしまった浜に、地中に埋められ、暗渠にされてしまった川にも似た痛ましさを感じる。意味を遺棄され、価値を剥奪され、裸形の物理現象にまで貶められた風景。便利な道路の下に広がるその光景に、自身が享受し、その中にいる暮らしの足元のことを思う。舗装された道路の下、巨大なショッピングモールの下、賑やかな駅ビル、コンビニ、ファーストフード店、均質に整えられた住宅地の下。そこにはかつてどのような風景が広がっていたのだろう。わたしたちは、そうして地層のように幾重にも重なった無数の傷ましさを、土足で踏み躙りながら暮らしているのかもしれない。

波打ち際に立つ。

波は数メートル先のコンクリートに、どしんどしんとその質量をぶつけ続けていて、その度にわずかな振動が足裏に伝わってくるように感じる。時折海水の飛沫が顔に当たる。波の音は、頭上の高架道路の底面と背後の堤防の間で反響し、広がりのないひとかたまりの音塊として、空間を震わせては消える。それは海の広さではなく、この空間を区切る巨大なコンクリートの構造体の重さが鳴らしている音で、その振動に、海と絶縁された人間の世界の縁に立っているということを強く意識させられる。それは、剥き出しにされた鋭利な縁の、外部との摩擦が発する音響であり、ここにあわいは無い。

そのままその音の塊に身体を預ける。

風の音、波頭の立てる高い音、海水がブロックの間を流れる小川のような音、浜に染み込む波が砂を揺さぶるホワイトノイズのような粒の細かい音。そのいちばん底は、海水の質量が目の前の巨大なインフラストラクチャーを叩く低い低い音が地鳴りのように響き、足裏に感じる振動と境目なく繋がっていて、寒風に硬くこわばった肉体の芯の震えと区別をつけることができない。

それは、怯えによく似ている。


足元を見る。その濡れた地面は、大きな波が来ればこの立っている場所が波に攫われるということを意味している。少し先に、鈍い燕脂色をした漁具のかけらが落ちているのが見える。彼がこの目の前に広がる水塊の中に落下したのは、いつのことなのだろうか。どれだけの時間を暗い水の中で過ごし、いつここに漂着したのだろうか。

その無数のいきものたちがくらしているのだろう、冷たくて暗い世界に手を入れて、彼らの銀色に光る鱗に、粘液に覆われた柔らかい肌に触れることを想像する。波に攫われ、もみくちゃにされながらその中をゆっくりと落下し、闇の中の彼らの世界を、このからだを持って訪れることを想像する。

再び目をあげ、茫漠と広がる水塊に眼差しを向ける。ありありと眼前に広がるのは、抽象ではない外部であり、具体的な生と死そのものの、途方もない広がりだ。その圧倒的な質量の前に、私の貧弱な夢想は一瞬で掻き消される。

この漁具のかけらは、その全身で何に触れてきたのだろうか。 拾い上げて、その表面をそっと撫でてみる。怯えるようにかじかんだ指先には、濡れた砂と、ベタつく潮の感触だけが残される。