「身土」補遺1. 裸形の縁(へり)

春の初め、午前6時。

夜がいつ明けたかもわからないような、曇天の暗い早朝。
海辺の無人駅で列車を降りると、風の中に粉雪が舞っている。

駅舎を出て歩く。海岸線の際にまで迫った山々を仰ぎ見ると、中腹より上は雲の中に隠れている。海側には高架道路が絡み合うようにして続き、その並んだ巨大な柱の間から、灰色の水平線が見える。


堤防と消波ブロックのあいだに残された、僅かな浜に降りる。

目の前には、分厚い雲にのし掛かられた水塊が黒々と広がっている。冷たい風の中に、わずかな潮の匂いを感じる。夏の海辺で感じるその匂いは、いきもののはらわたのような生々しい感触だが、いま冷たい大気とともに鼻腔から侵入してくるそれは、こごえる骨の結晶のような切実さで、そのまま鼻の奥から上顎骨にじわりと染み込み、頚椎を通過し、背骨から手足の末端へ向かって減衰しながらゆっくりと伝っていく。

あたりを見渡すと、護岸された猫の額のような浜には無遠慮に立てられたコンクリートの円柱がどこまでも続き、その間に申し訳程度に大小の石が転がっている。これを浜と呼んでも良いのだろうか?

その高架道路の単なる土台にされてしまった浜に、地中に埋められ、暗渠にされてしまった川にも似た痛ましさを感じる。意味を遺棄され、価値を剥奪され、裸形の物理現象にまで貶められた風景。便利な道路の下に広がるその光景に、自身が享受し、その中にいる暮らしの足元のことを思う。舗装された道路の下、巨大なショッピングモールの下、賑やかな駅ビル、コンビニ、ファーストフード店、均質に整えられた住宅地の下。そこにはかつてどのような風景が広がっていたのだろう。わたしたちは、そうして地層のように幾重にも重なった無数の傷ましさを、土足で踏み躙りながら暮らしているのかもしれない。

波打ち際に立つ。

波は数メートル先のコンクリートに、どしんどしんとその質量をぶつけ続けていて、その度にわずかな振動が足裏に伝わってくるように感じる。時折海水の飛沫が顔に当たる。波の音は、頭上の高架道路の底面と背後の堤防の間で反響し、広がりのないひとかたまりの音塊として、空間を震わせては消える。それは海の広さではなく、この空間を区切る巨大なコンクリートの構造体の重さが鳴らしている音で、その振動に、海と絶縁された人間の世界の縁に立っているということを強く意識させられる。それは、剥き出しにされた鋭利な縁の、外部との摩擦が発する音響であり、ここにあわいは無い。

そのままその音の塊に身体を預ける。

風の音、波頭の立てる高い音、海水がブロックの間を流れる小川のような音、浜に染み込む波が砂を揺さぶるホワイトノイズのような粒の細かい音。そのいちばん底は、海水の質量が目の前の巨大なインフラストラクチャーを叩く低い低い音が地鳴りのように響き、足裏に感じる振動と境目なく繋がっていて、寒風に硬くこわばった肉体の芯の震えと区別をつけることができない。

それは、怯えによく似ている。


足元を見る。その濡れた地面は、大きな波が来ればこの立っている場所が波に攫われるということを意味している。少し先に、鈍い燕脂色をした漁具のかけらが落ちているのが見える。彼がこの目の前に広がる水塊の中に落下したのは、いつのことなのだろうか。どれだけの時間を暗い水の中で過ごし、いつここに漂着したのだろうか。

その無数のいきものたちがくらしているのだろう、冷たくて暗い世界に手を入れて、彼らの銀色に光る鱗に、粘液に覆われた柔らかい肌に触れることを想像する。波に攫われ、もみくちゃにされながらその中をゆっくりと落下し、闇の中の彼らの世界を、このからだを持って訪れることを想像する。

再び目をあげ、茫漠と広がる水塊に眼差しを向ける。ありありと眼前に広がるのは、抽象ではない外部であり、具体的な生と死そのものの、途方もない広がりだ。その圧倒的な質量の前に、私の貧弱な夢想は一瞬で掻き消される。

この漁具のかけらは、その全身で何に触れてきたのだろうか。 拾い上げて、その表面をそっと撫でてみる。怯えるようにかじかんだ指先には、濡れた砂と、ベタつく潮の感触だけが残される。