【お知らせ】身土対話 2

一般社団法人リビング・モンタージュのサイトにて、「シリーズ・地球のナラティブ」のエディターである寺田匡宏さんと、書籍「身土:人の世の底に触れる」について語り合う対談シリーズの第2回が掲載されました。
第2回は「システムと全体――「心の世界」と「実在の世界」のあいだ」です。

「身土対話」寺田匡宏×和出伸一

【書籍】「フューチャー風土: ひと、いきもの、思考する機械が共存在する未来」(環境人間学と地域)

こちらの書籍に、写真シリーズ「身土」からの写真、編者の寺田匡宏先生との対談、マンガなどを寄せさせていただきました。カバーにも、マンガの一部を使っていただいています。

寺田匡宏編 / 京都大学学術出版会 / 2025年3月
A5上製・792頁 / 本体9,000円(税込 9,900円)
ISBN: 9784814005833

→出版社HP

【書籍】写真集「身土 – 人の世の底に触れる」(叢書 地球のナラティブ)

あいり出版より、「接地点」の記録写真をまとめた書籍を刊行しました。

和出伸一著 / あいり出版 / 2023年2月
四六判 並製 382頁 定価:2200円(本体2000円)
ISBN 978-4-86555-096-2

出版社HP
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【目次】
プロローグ 空を飛ぶ夢
  <イントロダクション> 人の世のかけらを拾う
Ⅰ あわいに立つ
 <幕間Ⅰ> 異物として歩く
Ⅱ 野を歩く
  <幕間Ⅱ> 旅の底が抜ける
Ⅲ 塔と回路
  <幕間Ⅲ> 外に出たかった話/海とその向こう
Ⅳ 山に入る
  <幕間Ⅳ> 熱量と遺灰
Ⅴ 象
  <幕間Ⅴ> もっとも内側と、もっとも外側は接している
Ⅵ 接地点
  <あとがき> 風景に帰る 
エピローグ 遠くをまなざす

2025.2「ARTISTS’ FAIR KYOTO 2025」

日程

<メイン会場>
2025年2月28日(金)~ 3月2日(日)

<アドバイザリーボード展@東福寺>
2025年2月28日(金)~ 3月6日(木)時間

京都国立博物館 明治古都館
09:30 ~ 17:00(最終入場16:30)

京都新聞ビル 地下1階
10:00 ~ 17:00(最終入場16:30)

臨済宗大本山 東福寺
09:00 ~ 16:00(最終入場15:30)

https://artists-fair.kyoto/

©︎ARTISTS’ FAIR KYOTO Photo by Aoto TOKUI
©︎ARTISTS’ FAIR KYOTO Photo by Mikoto YAMAGAMI
©︎ARTISTS’ FAIR KYOTO Photo by Mikoto YAMAGAMI
©︎ARTISTS’ FAIR KYOTO Photo by Mikoto YAMAGAMI
©︎ARTISTS’ FAIR KYOTO Photo by Mikoto YAMAGAMI
©︎ARTISTS’ FAIR KYOTO Photo by Mikoto YAMAGAMI
©︎ARTISTS’ FAIR KYOTO Photo by Mikoto YAMAGAMI

メディア記事等

美術手帖 https://bijutsutecho.com/magazine/news/market/30352?page=3

Pen online https://www.pen-online.jp/article/018190.html

瓜生通信 https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/1352

【「身土」補遺】2. 断章/空を飛ぶ夢

空港のロビーで飛行機を待っている。

オフシーズンの平日とあって人はあまり居ないが、それでも窓に沿って並んだソファーには、ぽつりぽつりと人が座っているのが見える。いかにも観光といった浮ついた雰囲気の人はおらず、スーツや地味な服装の人が大半で、みな静かに搭乗の時間を待っている。大きな窓の外には、日常ではあまり見ない広さの平面である滑走路が広がり、時折発着する旅客機が目の前をゆっくりと横切ってゆく。ロビーの大きな空間を満たす、快晴の午後の明るすぎる光のせいだろうか。どこか夢のような、現実から遊離した時間の手触りを感じる。

空港に限らず、待合室というのは独特な質感をもった空間だ。そこでは時間は流れず、しかしそれは澱んだ停滞とは異なり、期待や不安、予感と徴候の微細な振動で満たされている。それらがこの空間で形を成すことは決してなく、我々の身体は、呼ばれるのを待つという、半端に開かれた受動的な姿勢のまま留め置かれる。どこか別の時間と空間へつながる幕間であり、いわばどこでもない場。途上で立ち止まり、宙吊りにされたまま次の物語をただ待つ場。三途の河原も、このようなぽっかりと明るく乾いた空気の場所なのかもしれない。


搭乗時間が近づくとゲート付近は俄かに慌ただしくなり、スタッフたちが慣れた様子で手続きの準備を始める。保留された時間と空間の一隅が、彼らの身振りによって少しずつほぐされ、出口として開かれてゆく。待合の客たちの身体は、その動勢が伝播したように、徐々に宙吊りの状態から動きの予感を湛えた佇まいに変質する。

搭乗開始のアナウンスが流れると、ロビーを満たしていた微細な振動は泡を形成し、ゆるやかに流動を始める。私の身体がその流れに同調しようとしているのを感じて、そのわずかな疼きに促されるままソファーから立ち上がり人々の列に加わる。きちんと制服に身を包み、落ち着いた態度で乗客を案内しているスタッフたちの立ち居振る舞いが、この先の空間がどのような質のもので、どんな文脈の、どんな物語の中にあるものなのかということを告げている。彼らと軽いやりとりをし、搭乗手続きを済ませる。客として眼差されるという、他者とのほんのささやかな接触が、一瞬で自身の身体の輪郭を明瞭にするのを感じる。
そのまま薄暗い搭乗橋の中を進み、終点の小さなドアから機内に入る。トンネル状のものをくぐるという体感もまた独特だ。違う空間同士を繋ぐ場所という意味では待合室と似ているが、そこは静止する場ではなく、逆に決して留まることのない場である。そういえば、飛行機も、列車も、長細いトンネルのような形をしている。人間の肉体も、およそ9メートルの消化管という穴が穿たれた、いわば一本の管であり、トンネルの一種と言えるのかもしれない。

それにしても、飛行機というものは何度乗っても慣れない。これから空を飛ぶということへの若干の不安と期待、興奮と緊張が入り混じった、そわそわとした気持ちのまま自分の席を探す。手荷物をまとめて座席に座り、辺りを見回すと、他の乗客たちはごく当たり前のように落ち着き払って、荷物棚にスーツケースをあげたり、つまらなさそうにスマートフォンを弄ったりしている。見たところ、いつも通りの慣れた動作といった様子だが、内心はどうなのだろう。私と同じように落ち着きなく浮つく心を、子どもじみているという自嘲とかすかな恥の感覚とともに押し殺しているのだろうか。それとも、本当に唯の日常の動作の中にいて、特に何も感じてはいないのだろうか。


時々、空を飛ぶ夢を見る。
しかし、残念ながらすんなりと自在に飛べた試しはなく、いつも大変な苦労を伴う。

その夢はまず、人間は普通に空が飛べるのだ、ということを思い出すことから始まる。平泳ぎの要領で懸命に手足を動かし、空気を掻くと、思いの外軽い力で空中を泳ぐことができて、ほら、やっぱり飛べる、と思う。そのまま、腰のあたりから、高くても電柱の高さくらいの空中をじたばたと泳ぐ。気を抜いて疑いが生じ、飛べるという「普通」を手放してしまうと、手足に感じていた大気の手応えは消え失せ、ずるずると落下することになる。自由に大空を飛ぶ爽快な夢を見ることができればさぞ気も晴れるだろうが、ついぞそのような夢を見た記憶はない。


ドアが閉まり、シートベルト着用サインがつくと、機体は誘導路をゆっくりと動き始める。緊張のせいか、それは随分と長い時間のように感じる。やがて機体は滑走路に進入し、離陸位置でぴたりと静止する。しばらくの間の後、突然エンジンの出力が一気に上がる。その音の力強さが頂点に達した瞬間、引き絞った弓から矢を放つように、一気に加速が始まる。轟音と加速度に揺さぶられながら窓の外を見ると、地面が少しずつ離れていくのが見える。やはり、空を飛ぶということは普通ではなく、大変な異常事態である。

とはいえ、普通を異常に切り分けていっても際限がないだろう。自動車という1トンほどもある金属の箱が猛スピードで好き勝手に街を走り回わっているのは恐ろしすぎるし、蛇口を捻るだけで遥か遠くの水源の水が手元に流れ出すのも実に奇怪だ。心臓が、長ければ百年近くも勝手に休みなく動き続けているのも不気味だし、時が過去から未来に向かって一方向にだけ流れ、戻らないことも、どういうわけか今ここにこうして在ることも、それがいつか終わることも、理不尽極まりない。そのように切り分け続けていくと、最後には宇宙と同じ大きさの、茫漠と広がる不可解で異常な世界に、不可解で異常なわたしがひとりでぽつんと立ち尽くすことになる。

だから我々は普段、どこか適切な場所に「普通」としてピントを合わせて、その解像度を生きている。「普通」という感覚の基底を生成し、それを信用し、その上に意味や価値や物語といった構造を築き上げ、その中を生きている。

飛行機は旋回しながら一気に高度を上げる。窓の向こうの離れていく地上が、壁のように斜めに傾いでいる。何度も体験し、知っている状況のはずだが、実際に轟音と共に揺れる部屋に身体が置かれると、やはり毎回初めてのように驚いてしまう。
揺さぶられ怯える身体を、様々な知識や理屈を思い浮かべてどうにか説得しようと試みる。飛行機というものが当たり前にあるということを、私は知っている。これまでに無数の飛行機が空を飛び、無数の人々がそれを経験していることを私は知っている。飛行機で死亡するリスクは、自動車による死亡リスクの2000分の1であることを私は知っている。いま窓の外で反り上がっている主翼と揚力の物理的関係を私は知っている。
ふと周りの人々を見ると、みな揺さぶられながらも落ち着いて座っていて、取り乱している者は誰もいない。

多くの人は、普通にしている乗務員や、周りの乗客の様子に安心するのであって、空を飛ぶ理屈を知ることで安心しているわけではないだろう。当然ながら、物理的に計測できる磁場や電場のように「普通場」があるわけでも、「安全素」で満たされた空間もあるわけではない。ただその普通を普通として生き、維持し続ける誰かが居るばかりである。わたしたちは、普通を纏い、普通の一片として、普通と普通を繋ぎながら移動する。

さて、この普通とはなんなのだろう。それは夢とどう違うのだろう。


夢という言葉は、睡眠中に見る夢という意味のほかに、「将来の夢」や、「夢を語る」などのように、未来に対する何らかの願望やビジョンを指す言葉としても使われる。その場合の夢とは、どのようなものだろうか。

それは「欲望」に近しいが、そこまで即物的な肉感と熱量はなく、「望み」や「願い」ほど漠然として受動的なニュアンスでもない。そこには意思と、そこに至るプロセスが含まれているように感じられる。それは未来への眼差しそのものであり、変化と時間を、すなわち物語を内包している。それは動態であり、未完のもの、途上のもの、未だ来らざるものである。それは指向性があり、実現を、完結を求め、到達することに乾いている。

そして、それは叶ったり、破れたり、奪われたり、忘れられたり、醒めたりする。終わりと限界が前提として組み込まれている。つまり境界があり、領域があり、中と外があり、したがって輪郭と皮膚を持っている。それは、外部との、他者との接触以前のものであり、その力強い明るさの中には、接触に対するナイーヴな怯えと排他性、閉じられた空間の湿った質感、閉塞感もかすかに漂っている。

こうして思いつくままに列挙してみると、それは人間のありようそのもののようにも思えてくる。


巡航高度に達した飛行機が水平飛行に移る。ポーン、という小さなチャイムが、シートベルトを外すことを許されたことを控えめに告げる。客室乗務員が、前から順番にドリンクのサービスを始めるのが見える。国内線の普通席であり、機内サービスとは名ばかりの簡素なものだが、それでも少し特別な感覚があり、嬉しい気持ちになる。それは、かれらが供しようとしている空の旅という物語の式次第の中にあって、その形式に則ったものだ。恭しくちいさな紙コップに注がれたお茶を受け取り、前席の背もたれに置かれた機内誌をめくってみる。そこには、紀行文やご当地グルメ、様々な土地の美しい写真などが掲載されていて、そのトーンは、いままで触れてきたスタッフたちの制服や立ち居振る舞いと同じ世界観に揃えられている。

隣に座っている背広を着た中年男性が、ノートパソコンを取り出して何やら書類を作成し始める。難しい顔で液晶を見つめる彼は、機上にありながら、本社や支社や会議室や、上司や部下や取引先などで構成されたビジネスの物語の中に居るのだろう。前方には、家族連れが並んで座っているのが見える。退屈そうに足をバタバタとさせる子供に語りかける両親の、言葉のトーン、所作、身につけているものの向こうに、かれらの家の親密さの感触、生活空間の質感が広がっている。周りを見渡せば、同様に出張中のサラリーマン、学生、旅行者など、多種多様な手触りの物語をまとった姿があり、かれらの居住まいの先には、それぞれ固有の世界が広がっているのが見て取れる。この空間を包もうとしている空の旅という物語は、注意深くかれらの物語の側に座り、その部分として受け入れられることを慎ましく望んでいる。

0.2気圧、-40℃の大気の中を、時速900㎞で移動する飛行機の、密封され、加圧されたキャビンは、その中に流れる様々な物語を壊すことなく、日常の延長として、普通を普通のままにそっと運ぶ。


窓から地表を眺める。微細なチリメンの皺のように見える海の波の小ささが、海面からここまでの距離を際立たせる。豆粒のような船が、小さな航跡を引きながら港に向かっていく。海岸に沿って、風力発電の風車が幽霊のように並んでいる。山々がひだを作り、そのひときわ高い頂きには、ちらほらと白い雪が見える。山間のわずかな平地は、もれなく整えられた田畑で埋められている。平野部を流れる曲がりくねった川。キラキラと白く光る小さなビルたち。網のように張り巡らされた道路。次々と後方に流れていく地表の様子を、まるで飢えを満たすように眺め続ける。

子供の頃、社会科の副読本として配られた地図帳がとても好きだったことを思い出す。ページをめくる度に現れる見たこともない世界の国々の風景や特徴、風物や暮らしに想像を膨らませて楽しんではいたが、それよりもまず、地形をなぞるように眺めること、その肌触りそのものに夢中になっていたような気がする。
その感触は、なぜか顕微鏡で見るミクロの光景ともよく似ている。買ってもらった顕微鏡で、田んぼや池の水の中に住む藻類や微生物を眺めたことを思い出す。私はそれも風景として眺めていたのかもしれない。

私は何を見てうっとりとし、何に触れることを欲していたのだろう。

今、私が風景を眺めることに夢中になっているここは、地表から約一万メートルの遠さにあり、山も木々も街も、海も川も野も、風も雲も雨も、わたしたちが日常的に世界と呼んでいるもののほぼ全てが、眼下に広がる極薄の対流圏の中にある。
私が今まで触れたものの全てが、過ごした場所の全てが、見たこと、聞いたこと、出来事と経験の全てが、この青白く光る薄い皮膜の底にある。そう思うと、それらがどこかまるっきり嘘のように、夢や幻のように思えてくる。

これは誰によって見られている夢なのだろう。
その夢が見られている場所は、その肉体はどこにあるのだろう。


あたりまえのことだが、いま座っているこの空間は誰かが支え、維持している空間である。乗務員たちの安心感のある立ち居振る舞いも、決して一朝一夕に身につくものではないだろう。この機体の前部の小部屋に座っているであろうパイロットにも、その席に座るまでの長い訓練の時間があり、その訓練内容は、飛行機というものが世界で初めて空を飛んだ瞬間から、誰かの犠牲を伴いながら、誰かが一つずつ積み上げた知見の集積だろう。整備士の手元には長大なマニュアルがあり、それは、無数の人々が創意と妥協、実験と失敗を積み重ねた痕跡の集合である、この飛行する機械の見取り図となっているだろう。


いま背中に感じている背もたれの感触の先に、手に持った紙コップとお茶の重さの先に、客室乗務員の制服の繊維の先に、そんな無数の誰かの時間が連綿と続いていて、その絡まり合った巨大で複雑な物語の束の先端に、この揺れる部屋がある。
夢のようだと感じることを可能にしているこの部屋は、その無数の、しかし原理的には数えることが可能な有限の誰かに、一人ずつ名前を挙げていくことができる誰かの過ごした時間に支えられている。きっと、我々は一人残らず、その物語と時間の束の先端に立たされ続けているのだろう。


雲上の馬鹿みたいに明るい光が差し込む密室から、分厚いガラス越しに見る地上は、幻燈のような、夢のような質感で、だから、それに手を伸ばして触れることはできない。実際に触ろうと欲するならば、地表をのそのそと二本の足で歩き、小さな身体の小さな手のひらに触れる、極々僅かな部分の感触で満足する他はないが、残念ながら、あの触れたかった夢の手触りは、そこにはない。

【「身土」補遺】1. 裸形の縁(へり)

春の初め、午前6時。

夜がいつ明けたかもわからないような、曇天の暗い早朝。
海辺の無人駅で列車を降りると、風の中に粉雪が舞っている。

駅舎を出て歩く。海岸線の際にまで迫った山々を仰ぎ見ると、中腹より上は雲の中に隠れている。海側には高架道路が絡み合うようにして続き、その並んだ巨大な柱の間から、灰色の水平線が見える。


堤防と消波ブロックのあいだに残された、僅かな浜に降りる。

目の前には、分厚い雲にのし掛かられた水塊が黒々と広がっている。冷たい風の中に、わずかな潮の匂いを感じる。夏の海辺で感じるその匂いは、いきもののはらわたのような生々しい感触だが、いま冷たい大気とともに鼻腔から侵入してくるそれは、こごえる骨の結晶のような切実さで、そのまま鼻の奥から上顎骨にじわりと染み込み、頚椎を通過し、背骨から手足の末端へ向かって減衰しながらゆっくりと伝っていく。

あたりを見渡すと、護岸された猫の額のような浜には無遠慮に立てられたコンクリートの円柱がどこまでも続き、その間に申し訳程度に大小の石が転がっている。これを浜と呼んでも良いのだろうか?

その高架道路の単なる土台にされてしまった浜に、地中に埋められ、暗渠にされてしまった川にも似た痛ましさを感じる。意味を遺棄され、価値を剥奪され、裸形の物理現象にまで貶められた風景。便利な道路の下に広がるその光景に、自身が享受し、その中にいる暮らしの足元のことを思う。舗装された道路の下、巨大なショッピングモールの下、賑やかな駅ビル、コンビニ、ファーストフード店、均質に整えられた住宅地の下。そこにはかつてどのような風景が広がっていたのだろう。わたしたちは、そうして地層のように幾重にも重なった無数の傷ましさを、土足で踏み躙りながら暮らしているのかもしれない。

波打ち際に立つ。

波は数メートル先のコンクリートに、どしんどしんとその質量をぶつけ続けていて、その度にわずかな振動が足裏に伝わってくるように感じる。時折海水の飛沫が顔に当たる。波の音は、頭上の高架道路の底面と背後の堤防の間で反響し、広がりのないひとかたまりの音塊として、空間を震わせては消える。それは海の広さではなく、この空間を区切る巨大なコンクリートの構造体の重さが鳴らしている音で、その振動に、海と絶縁された人間の世界の縁に立っているということを強く意識させられる。それは、剥き出しにされた鋭利な縁の、外部との摩擦が発する音響であり、ここにあわいは無い。

そのままその音の塊に身体を預ける。

風の音、波頭の立てる高い音、海水がブロックの間を流れる小川のような音、浜に染み込む波が砂を揺さぶるホワイトノイズのような粒の細かい音。そのいちばん底は、海水の質量が目の前の巨大なインフラストラクチャーを叩く低い低い音が地鳴りのように響き、足裏に感じる振動と境目なく繋がっていて、寒風に硬くこわばった肉体の芯の震えと区別をつけることができない。

それは、怯えによく似ている。


足元を見る。その濡れた地面は、大きな波が来ればこの立っている場所が波に攫われるということを意味している。少し先に、鈍い燕脂色をした漁具のかけらが落ちているのが見える。彼がこの目の前に広がる水塊の中に落下したのは、いつのことなのだろうか。どれだけの時間を暗い水の中で過ごし、いつここに漂着したのだろうか。

その無数のいきものたちがくらしているのだろう、冷たくて暗い世界に手を入れて、彼らの銀色に光る鱗に、粘液に覆われた柔らかい肌に触れることを想像する。波に攫われ、もみくちゃにされながらその中をゆっくりと落下し、闇の中の彼らの世界を、このからだを持って訪れることを想像する。

再び目をあげ、茫漠と広がる水塊に眼差しを向ける。ありありと眼前に広がるのは、抽象ではない外部であり、具体的な生と死そのものの、途方もない広がりだ。その圧倒的な質量の前に、私の貧弱な夢想は一瞬で掻き消される。

この漁具のかけらは、その全身で何に触れてきたのだろうか。 拾い上げて、その表面をそっと撫でてみる。怯えるようにかじかんだ指先には、濡れた砂と、ベタつく潮の感触だけが残される。

【エッセイ】山によばれる

秋の初め。なんの脈絡もなく、なにやら大きな、怒りのような悲しみのような強烈な情動に不意におそわれ、眠ることもじっとしていることもできない、そんな夜。

とりあえず体を動かせば落ち着くかと、ひとまず外に出てあてもなく歩く。
住宅街の狭い路地。歩きながら目にうつるブロック塀や電柱に次々と手を伸ばして触れてみるが、あまり感覚は入ってこない。身体の中を渦巻き、出口を求める形のない情動の波に注意力は奪われ、どうしてもまなざしは内向し、いま歩いているはずの夜の光景は半透明な膜の向こうを手掛かりもなく滑ってゆく。喉の奥が閉まり、呼吸が浅くなっているのを感じる。それでも体を動かしていれば多少は楽なようだ。現実感を喪失したまま、しばらく歩き続ける。

いつの間にか雑草の生い茂る川べりの道を歩いている。
足元から伸びる草を軽く掴み、引っ張ってみる。桜の老木の、苔に覆われてゴツゴツとした樹皮を撫でてみる。少し落ち着いたようで、先ほどよりも少し感覚が開いている。草叢に半ば埋まるように設置されているベンチに腰掛け、そのまま寝転がり夜空を見る。頭上を覆う木々の枝の隙間から月が見える。
どのように玄関を出て、どのようにここまで歩いてきたのだろう。思い出そうとしても、他人の記憶を探るような遠い感触で、うまく思い出すことができない。理性ではあまり良い状態ではないことはわかるが、その理性の世界は膜の向こうに見えるばかりで、引き寄せようと手を伸ばしても、ガラスに爪を立てるようになんの手掛かりも無い。
そのまま目を閉じる。一旦運動を止めたせいか、意識の外に追いやられていた周りの音が、堰を切ったように身体に流れ込んでくる。川の流れる音、風の音、遠くの町の喧騒が混ざりあった地鳴りのような音。

起き上がりふと目を上げると、向こうに黒々と鎮座する山並みが見える。
よく知っている山だが、月の光に色彩を奪われたその姿は、かえって尾根筋や樹木の立体感が際立ち、昼間よりもずっと大きく見え、巨大な質量を感じる。
その質量の重力に吸い込まれるようにして、山の姿をじっと見つめる。尾根の一つ一つを、樹木の種類ごとの質感とボリュームの違いを目で撫でるようにして追う。その表面に堆積した、暗く湿った土の層を想像する。その下の、質量の大半を占めるであろう岩塊の大きさを、重さを、手触りを想像する。自分の肉体の体積と質量を、その真っ黒な塊と比べる。

どうしても今すぐにあそこに行かなくてはいけない。

どういう訳か、それが唯一の答えだと確信する。
居ても立ってもいられなくなり、足早に家に帰ると、追われるように準備をして飛び出す。


登山口には未舗装の小さな駐車場があり、奥にはポツンと自動販売機が置かれている。
その灯りの中に自転車を止め、山の中へ向かう坂道を登る。

先ほど遠くから想像していたその黒い塊が、今は視界全てを覆う闇そのもののように目の前に聳え立っている。月は出ているが、森の底にその光は届かない。懐中電灯をつけて、道の先を照らしてみる。小さな光の輪の外は真っ暗だ。その闇は思いのほか不透明で、まるで墨汁の中を泳いでいるように感じる。何度も歩いたことのある道だが、当然ながら昼間とは全く別の世界に変貌している。

あちらこちらから秋の虫の鳴く声が聞こえてくる。
そのままゆっくりと登山道を歩く。家を出る際ついでに手に取ったビデオカメラを取り出し、懐中電灯が照らす先に向ける。


その小さな光の輪は、下草の上を滑り、木の根に突き当たり、そのまま幹をなぞるように登っていき、枝の先の葉叢をぼんやり照らすと、中空へとかき消える。斜面を走り、藪を撫で、飛沫を上げる沢の水面に落下し、流れを逆さまに登って、岩の向こうの遠い暗闇に吸い込まれる。


懐中電灯を持つ手を動かして、その光で周囲を触るように確かめる。べっとりと身体に纏わりつく闇の圧力の中で、その小さな灯りが届く場所だけは透明になり、空間が現れる。
樹皮、枯葉、中空に伸びる枝と葉、こんもりとした低木の藪、名前も分からないキノコ、羊歯、柔らかそうな苔類。ダンゴムシ、コオロギ、蝉、ナメクジ、沢蟹。さまざまな形が光の中に現れては消える。漫然と広がっていただけの暗闇が、その具体的な細部の手触りに少しずつ満たされてゆく。背中では、リュックに下げた熊避けの鈴が鳴り続けている。


柳田国男の『山の人生』には、山に駆け入ってしまった者たちの話がいくつも載っている。
世の中への憤懣から遁世した者、産後に発狂した女性、不意にいなくなる娘や子供…。私などはカメラ片手に帰る気満々だが、もっとはっきりと、どうしようもなく、決定的に山に呼ばれ、後戻りのできない形で駆け入ってしまうことも、おそらくはあったのだろう。

濃密な共同体の中で、自身が受け続けている傷に気付くことなく日々を過ごす。傷を対象化する視点も、表現することばも、跳ね除ける力も持てず、ただその渦中で訳もわからずもがき続ける。出口も移動の自由もない世界の中で、その傷の痛みはある日突然、閾値を超える。その圧力は、その力の強さと大きさは、そのどうしようもなさは、いかばかりであっただろうか。
裏を返せばそれは、私たちを強く拘束し、同時に私たちを守ってもいる、群れを形成しようとし続ける運動の、私たちのありようを根底から基礎付け、形作り、それゆえに自明のものとして普段意識することの無い「普通」と呼ばれる信仰の、強さと大きさそのものなのだろう。

かれらは、しばしば人里を懐かしむ。炉の火を、酒を、米の味を恋しがる。しかし、一度出てしまった、追放された群れには、絶対に戻ることができないのだということを、かれらは良く知っている。里の者は、当然の反応として、かれらを尋常ならざるものとして怖れ、群れの外へ、闇の方へと一方的に追いやるだろう。


道から少し外れる。 

緩やかな斜面をしばらく登り、そのまま仰向けに寝そべる。腐敗へ向かう枯葉の柔らかな感触と土の匂い。ふくらはぎ、臀部、背中、後頭部の、地面に接触し自重がかかっている箇所から、じわりじわりと湿気が登ってくる。背中側の所々に石や枯れ枝の硬い感触があり居心地が悪いが、どうにも整える気にはなれない。
しばらくそうしていると、湿気と一緒に小さな虫が手足や頭、顔を登ってくる。虫が気持ち悪い、怖いという生理的感覚は、そのまま自身の輪郭の防衛ラインだ。いつもなら当然払い除けるだろうが、起き上がる気にも手足を動かす気にもなれず、少し捨て鉢な、どうにでもしやがれという気持ちでそのまま放置し、懐中電灯を消す。自分の手足も見えぬ闇の中で、体にたかる虫を放置する、という形で後退させた自身の輪郭は、たやすく闇に希釈され混ざり合う。

眼前には不透明な闇があり、まるで埋められているような、息苦しい圧迫感がある。自分は今地面の上にいるのか、土の中にいるのか。そのまま目をつむる。物理的に眼球からの視覚情報を遮断すると、音や気配に対する感度が上がり、周りの大きな広がりが感じられて圧迫感は消える。
頭の近くで小さな虫が歩く微かな音、さまざまな距離から聞こえてくる秋の虫の鳴き声、藪や樹上で何かが動く音。あちらこちらから感じる気配に、都度皮膚が反応してピクリと収縮する。それは自身の不安が投影されたものなのか、本当にそこにあるものなのか。呼吸、心音、汗がにじむ皮膚の感触、土からの湿気。虫の声、夜の鳥の声、遠くの沢の水の音、風が木々を揺らす音。それらの区別は徐々に溶けていき、唯のひろがりそのものになっていく。

知らぬ間に身じろぎでもしたのか、鈴が小さくコロンと鳴り、我に返る。
熊や獣の存在を改めて思い出す。


仏典の捨身飼虎の物語を思い出す。

釈迦の過去生の姿のひとつである、とある国の王子が飢えた虎に我が身を差し出して救う話だが、残念ながら凡夫である私には、虎に喰われるのはさぞ痛かろう、かわいそうで嫌だな、という貧しい感想しかない。
同時に、どこかで読んだ、ライオンに食べられかけ、生還した人のインタビューを思い出す。それは意外にも強烈な多幸感に包まれた体験だったそうだ。脳内麻薬のせいだといってしまえばそれまでだが、もし獣に喰われるという体験がそのようなものであるならば、王子の最後もそんなに悪いものではなかったのかもしれないと、少し気持ちが楽になる。それは生き物にとっては存外幸せな終わりの迎え方なのかもしれない。

とはいえ、当然私はまだ食べられたくは無い。
虫にたかられる程度の刺激からならば後退させることができる私の輪郭も、噛みつかれるような、痛みを伴うような侵襲的刺激にはきっと過敏に反応し、なりふり構わず逃げ出すだろう。
正常な恐怖感が湧き上がりはじめる。無様に抵抗し逃げる自分をありありと想像し、その情けない姿にホッとする。


再びカメラを起動する。小さな電子音と共に液晶の眩しい画面が点灯し、レンズが微かにジジジと音を立ててピントを探る。

その小さな光と音の向こうにつながる、雑多で断片的な手触りの記憶へのリンクが息を吹き返す。
カメラが売られていた家電量販店の明るい店内と能天気なテーマソング、新品の電化製品から漂う独特の匂い。立ち働く店員たちの顔と垣間見えるバックヤードの空気感。その店のある街角の雑踏の音と匂い。今までそのカメラ越しに見た沢山の光景とその瞬間の心の動き。編集ソフトを操作するカーソルを動かすバーチャルな感触とマウスパッドの上を滑るマウスの重さ、ハードディスクが立てるカリカリという音。
その無数の断片同士のゆるやかなつながりに血が通い始め、自身の生きていた生活空間としてゆっくりと再構成されていく。

はじめてビデオカメラというものを持った日のことを思い出す。
借り物のカメラを恐る恐る構える手のひらに伝わる、テープを回すモーターの感触を思い出す。
ただ映るということが面白かったことを思い出す。
とりあえず撮ってみた、当時住んでいた下宿の板張りの廊下を、急な階段を、共同の台所を、西日の差す明るい玄関を思い出す。
ファインダーの向こうで振り返り、照れくさそうに手を振る友人の、柔らかく油断した中途半端な笑顔を思い出す。

何気なく手に持ったと思い込んでいたカメラだが、そこには帰るつもりがあるということを忘れないための保険のような、命綱に縋るような、思いのほか切実な気持ちが混ざっていたことに気が付く。

立ち上がり、首にかけていたタオルで身体中を払う。


夜の帳は大劇場の緞帳のように重く濃密だ。私たちは透明な街の灯りの中で忘れているが、その帳は、山にも海にも街にも、等しく同じように、はるか昔からずっと変わることなく、繰り返し繰り返し降りてくる。

鈴を手に持ち替えて、コロン、コロンと鳴らしながら闇の中を歩く。

金物が触れ合う音色はこんなにも美しかったのかと、泣きそうな気持ちで聞き入りながら、一歩ずつ山を降りる。鈴がひとつ鳴るたびに、茫洋としていた皮膚感覚にピンと張ったテンションが戻り、それに伴って自身の輪郭が明瞭になってゆく。 いつの間にか、鈴の音に払われるようにしてあの情動の波は遠くに去り、その熱量のなごりだけが体の芯に残っている。

【エッセイ】野画

夕方の町を歩いている。

都市の外れの山際に残されたその古い住宅地は、柿の木などの植えられた庭のある大きな古い家と、真新しい建売住宅が混在している。狭い路地に入ると、古びた漆喰の塀に残された、いかにも楽しげで伸び伸びとした落書きが目に飛び込んでくる。よく見ると小さく日付が添えられており、どうやら40年ほど前に描かれたもののようだ。
40年前のある日、この壁の前に確かにあった、誰かの楽しい数時間を想像する。彼は、あるいは彼女は、今どこで何をしているのだろう。


春の朝。河口沿いに並ぶ家々の間を縫うように歩いている。

早朝の青い影の中から向こうを見ると、狭い路地の先に明るい空がのぞいているのが見える。そのまま進んで影から出ると、一気に穏やかな河口の風景が広がる。
正面の堤防を見ると、漫画のキャラクターらしきものが描かれていて、それがどういう訳か、この海辺の朝の青い空気にとてもよく馴染んでいるように感じる。虚像である彼だが、ここではちゃんと肉体を持って、ここに居て、歳を重ねて、ちゃんと消えようとしている。


真夏の昼過ぎ。身体中から汗を吹き出しながら、草の生い茂る線路沿いの小道を藪漕ぎのようにして進む。

左手の草むらに立てられたフェンスの向こうには、廃校になった小学校の荒れた校庭が見え、その奥には鬱蒼とした山がのし掛かるように迫っている。そのまましばらく進むと、山側から流れ落ちてきた小川が線路の下に潜りこんでいる場所にぶつかる。そのトンネルは大人がギリギリ屈まずに通れる程度の高さで、一緒に設置された歩道とともに、海側のひらけた場所へ続いている。
かつては通学路だったのだろう。壁面には、この子供には薄暗くて恐ろしいトンネルを、少しでも明るいものにしようとしたような、楽しげな絵が描かれている。


蒸し暑い午後の水田地帯を歩いている。

青々と伸びた稲の根元のぬるい水からは、泥と有機物のむせかえるような匂いが立ち昇ってくる。 畦道を歩いていると、人の気配に驚いた蛙が慌てて飛び込む水音が、あちらこちらから聞こえてくる。舗装道路に出てあたりを見渡すと、向こうに見える用水路のガードレールに、まるでこちらを見る二つの目のような枠があることに気づく。
近づいてしばらく眺める。貼紙かなにかが接着されていたのであろうその糊の跡が、さざ波にゆらぐ水面のように見えてくる。


いまにも降り出しそうな曇天。駅から一直線に伸びる大通りを歩く。

しばらく歩いていると、案の定雨が降り始める。リュックに手を入れ、折り畳み傘を探しながらふと目を上げると、歩道脇の茶色い鉄の箱の表面に、雨粒が次々と鮮やかな線を引いていくのが目に入る。
それは刷毛跡の浮いた平面に、元からあった白い落書きのような線と響き合いながら、一瞬だけ目の覚めるような表情を作り出し、見ている間に塗りつぶされて消える。


あちらこちらを目的も無くうろうろと歩き回る、そんな外れた時間の中に現れる「絵」。それは、見に行こうとしても見られず、偶然出会うことしかできないが、見出そうとすれば無数に見出すこともできる。

誰からも、描き手自身にすら忘れ去られ、見向きもされない。
あるいは、描き手すら存在しない。

それでもそこに在り、その在るということの確かな証拠として、それぞれの肉体に相応しい速度で風化し、その肉体に時を刻みながら、風景の中に、野の中に、あたりまえに、何も言わず静かに去ってゆく。

誰にも見られなかった、選ばれなかった、美しいとされなかった、特別ではなかった、大切にされなかった、愛されなかった、膨大な数の「絵」。そんな無数の、無銘の「絵」が、波しぶきのように水面に現れては消える大海原を夢想する。 この吹き曝しの物理世界の、気が遠くなるほどの広さの中に現れる、肉体としての、あるいは夢としての「絵」。

その野の広大さに触れることで、ようやく息ができるように感じる。